ベストアンサー
ID非公開さん
2022/5/10 11:20
志賀直哉との実父との不和を題材にした自伝的小説。 そもそも、自分に照らしてみると、ここまで家族と不和という状況がないよなと思った。 それだけ、この時代において家族の結びつきというのが強かったということも示していると思う。 今だと、ここまで不和ということもないが、そもそも嫌い、というよりは双方が不干渉という関係に近いなぁと思う。 和解、というよりもそもそもそこまで心を通わせるということもないので、自分と父はドライな関係なのだと、そんな不思議に思うこともなかったのだが、この小説を読んでそう思った。 読んでいると、志賀直哉の、自分の本心に正直で、思っていないことは言わないという、誠実というか頑固なところが表れていて、すごく好きだなと思った。そのワンシーンを抜粋する。父に、和解の手紙を書こうとするが、うまく書けないところから。 京都にいた頃、高等学校に通っていた従弟から 「貴方の大きな愛が他日父君を包み切る日のあることを望みます」とこんな事を手紙で云って来たことがあった。 その時自分は甚く腹を立てた。「大きな愛という言葉の内容を本統に経験したこともない人間が無闇にそんな言葉を使うものではない」と云ってやった。 自分は今その事を憶い出した。 自分は自分の調和的な気分で父がどんな態度を取る場合にも心の余裕を失わずに穏やかに対する自身を信ずる事は少し自惚れ過ぎていると思った。自分は知らず知らずの中に、所謂大きな愛で父を包み切る事が出来るような気になるのは馬鹿げた事だとおもった、自身の実際の愛の力も計らずに。 自分が本当に思ったことをそのまま、妥協なく書いているから、これほどまでに志賀直哉の文章に魅了されるのだと思う。 もっとこの人の小説が読みたいが、作品が少ないのが残念です。 この作家の小説は一生に一度は読む機会に恵まれるのではなかろうか? 最近はどうか知らないが、自分の世代は高校の現代文で『城の崎にて』を勉強した。 『城の崎にて』は随筆ながら、普遍的な哲学を思わせるし、透明感のある清々しさを感じさせるものだった。 『和解』は、志賀直哉自身の身の上を題材に取ったもので、父との不和からやがて和解にたどり着くまでのプロセスを綴ったものだ。 一般的に言うなら、他人様の親子喧嘩なんて、むしろみっともなくて見られたものではない。 だがそれは小説の神様、ドラマチックな父子の和解が成立するのだから、それはもう感動的だ。しかも、そんな個人的な親子間の問題を一つのテーマとして掲げ、決して自己の正当化を図ったものではない作風は、お見事としか言いようがない。 話はこうだ。 順吉は、父とのギクシャクした関係を、もう何年も続けていた。実家に用事がある時などは、なるべく父の不在を見計らって訪ねるようにしていた。 そんな中、順吉の妻に子ができた。父にとっては初孫である。 経済力の乏しい順吉は、結局、お産の費用を父に全額頼ってしまう。 順吉にとっても可愛い娘になるはずの赤子は、ある晩、体調を崩す。順吉は血相を変えて赤子を抱き、裸足で町医者の所まで走る。 我孫子のような田舎の医師では限界があると思った順吉は、さらに東京の医者にも電報を打つ。 だがそんな手厚い処置も虚しく、赤子はかえらぬ人となってしまう。 順吉は泣いた。 皆が我が子を、自分と父との関係に利用したが為に、死んでしまったのだと思い込んだ。 そして全ては、実家との不徹底がこの不幸を呼び込んでしまったのだと。 それから暫くして順吉の苦悩が癒えぬ間に、再び妻が懐妊した。夫婦は素直に喜んだ。 順吉は今度こそ死なせてなるものかと、臆病になり過ぎるほどの注意を払うのだった。 このように『和解』は、主人公・順吉とその妻の間に生まれる子どもの存在も大きなキーワードとなる。 実家の手を借りず、経済的な援助もなく乗り切ることができたなら、この話の結末は違っていたかもしれない。 だが実際には、父に頼り、その支えあってこそ順吉夫婦とその子の幸が保障されるものであることを、否が応でも認めざるを得ないのだ。 また、さんざん反抗した父という存在を前に、子の出生によって今度は自分が父という立場になるという因果。 順吉は初めて、親と子の絆を見たような気がしたのかもしれない。 志賀直哉が題材に取った親子の不和と子の出生は、相反するものでありながら、間違いなく一本の道筋となってつながっている。 類稀なる人間描写に思わず脱帽。 ぐいぐいと惹き込まれ、やがて自分も当事者に同化してしまうような錯覚すら覚える。 この神業とも思える見事な作風にどっぷりと浸かり、文学の香りを味わって欲しい。 実際の志賀親子の確執の理由を補足しておくと、有力財界人だった父親が同郷の古河財閥に近かったため、足尾銅山の鉱毒被害を息子が現地調査しようとした時に大反対したこと、また息子がお手伝いの女性と結婚するのを反対したことが理由である。 思春期の息子にしてみると、これらの事件を通して自分の父親が社会と家庭双方における暴君じみた権力者に見えたのか、彼は家を出ることで父と疎遠になっていく。 (彼の本作までの各作品の随所に父との対決が裏側に描きこまれていることは、本文および解説に詳しい。) ただ、本書の中でも随所に触れられているが、独立後も経済的には実家や親族に頼っていたようで、病死した子供の葬式を当然のように叔父に頼ったりしている。この辺りの自己矛盾が本来ならば最大の煩悶となるはずのだが、父と意地を張り合って感情的に妻に当り散らす様は、結構息子側にお坊ちゃんぽい幼さが感じられるのも事実だ。 以上のようなケチをつけた自分だが、やはり名文家だけあって、きっちりラストで泣かされた。 短い小説だが、家庭の中で様々な老いと死を巡るドラマが続く中で、父子の間のわだかまりが氷解していく様が、「自然主義」の作品と称されるだけあって極めてさらっと描かれているが、この辺の小説家としての「腕」はやはり巧みである。 若い頃に読んだ時も心に残った作品だったが、やはり年を取ってからふと読み返すと、心への迫り方が違う。
質問者からのお礼コメント
ひとつの文学評論書のようなご回答ありがとうございます。幕末史に興味があり相馬藩出身ということから志賀さんに興味を持ちいろいろ読んできました。飾り気のない文章が魅力だと思います。自分自身父との和解を経験したので志賀さんはどうだったのかなと思い読みました。不和の原因が詳しく書かれているのを期待していたのですが、なにげない文章の中にある情の深さが魅力だとわかりました。ありがとうございます。
お礼日時:5/17 20:19