邪馬台国探しに関連して、「三国史記 新羅本紀」について。 新羅本紀の倭についての記事ですが、紀元前後の記事は九州の勢力。5世紀の記事はヤマト政権と考えます。
邪馬台国探しに関連して、「三国史記 新羅本紀」について。 新羅本紀の倭についての記事ですが、紀元前後の記事は九州の勢力。5世紀の記事はヤマト政権と考えます。 記事のどこかで倭の主体(九州かヤマトか)が替わったのでしょうが、それはどのタイミングだと思われるますか? よろしくお願いします。 私は 312年 倭が婚姻を請う。急利の娘を送る。 344年 倭が婚姻を請うが断る。 この2つのイベント間に景行天皇の九州巡幸(のモデル)、ヤマトタケルの熊襲征伐(のモデル)があり、新羅から見た倭の主体が替わったと想像しています。 他人を不快にする、または挑発するような回答はご遠慮ください。
そもそも新羅本紀に信憑性が無いという、ツマラナイ回答は要りません。 質問に対するあなたの考えを教えてください。
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『三国史記』(新羅本紀)は新羅建国の実力者で四代王となった昔脱解を倭種と記したり、脱解を補佐した№2の瓢公を倭人と記すなど今の韓国人には受け入れられないことが記されていますよね。 私は永楽大王(好太王)の碑文に記された倭との熾烈な戦いの様子から、九州あたりの勢力がやはり倭の主力だったと考えています。 畿内を本拠とする政権が度々渡海して攻めることができるか疑問なので。 質問趣旨から離れてしまいますね・・・。 結論から言うと、応神天皇以降が大和政権。 継体天皇をわざわざ応神天皇の五世孫と記しているように、書記編纂時に応神天皇が始祖王という概念があった証左と理解しています。 邪馬台国は、日本列島を代表する政権ではなく九州の地方政権だったというのが私の理解で、当時すでに畿内で巨大な古墳群を築いた政権が存在していたという立場です。
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質問者からのお礼コメント
皆さまありがとうございました。 またよろしくお願いします。
お礼日時:5/17 8:49