戦国時代の戦闘って、兵士レベルでは殺し合いではなかったですよね? 死者数が異様に少なく、その後の動員兵など考えると、 かなり少なかったと思われますが…
戦国時代の戦闘って、兵士レベルでは殺し合いではなかったですよね? 死者数が異様に少なく、その後の動員兵など考えると、 かなり少なかったと思われますが… 激戦の長篠の戦いでも、武田軍の死者は実は1割ほどではなかなったかと 言われていてそれは後の動員実績から考えると通説の6000人が死んでいれば 辻褄が合いません。 どうして死者数があまりにも少ないのですか? ご回答お願いします。
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長篠合戦に絞って回答します。 長篠合戦における死傷者数については、諸説様々です。 『信長公記』で10,000人。当時の公家や僧侶の日記で、数千人と書き残されています。 当然、死者数をいちいち一人ずつ数えているわけではないと思いますので、正確な数字ではありません。 また、信長が勝利を政治的に利用するため、戦果を誇張して書き送った書状が一人歩きし、公家や僧侶の耳に伝わった可能性があります。 しかし、指揮官クラスだけ見ても、武田一族の武田信実、望月信永。重臣の内藤昌秀、山県昌景、馬場信春、原昌胤、土屋昌次。先方衆の真田信綱、安中、和田、岡部などなど、他の合戦では見られないような上級家臣の戦死が多いです。 真田家周辺に至っては、当主の信綱、その弟の昌輝。真田を含む滋野一族では、根津、鎌原、常田、望月など中枢が討死しています。 名前が判る武将だけで、このクラスと数ですので、それに比例して名もなき兵数の損害も増えます。 さらに、長篠合戦から数ヶ月後に小山城付近で武田軍と対陣した徳川方の記録によれば、「武田軍は兵の質が落ちたことが遠くからわかる」とあります。 また、武田方の記録では、兵士として徴用する年齢や職業の制限を撤廃したり、武家から僧籍に入った者を還俗させるなどして、兵数の回復に努めています。 これらのことから、武田軍の人的損害が甚大であったことは確実と言えます。 「通説の六千人死んでいると辻褄が合わない」とおっしゃる考えはそのとおりですが、武田軍は徴兵の範囲を拡大して兵の質を落としてでも兵数の回復をはかり、戦死者の穴を埋めて辻褄を合わせているのです。 また、「死者が通説よりも少ない」とする説ですが、「そもそもの動員兵数が少ない(武田軍は一万人以下)のでは?」との説が根拠ではありませんか? 自分も様々な書籍や発表に目を通しましたが、参戦兵数に対する戦死者・未帰還者の比率は5割を超える大損害という事に異論を唱えている研究者は知りません。
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