神社で「二礼二拍手一礼」は伝統的な作法ではない 宗教学者が教える“しきたり”の嘘
神社で「二礼二拍手一礼」は伝統的な作法ではない 宗教学者が教える“しきたり”の嘘 という記事がありました。 伝統ではないのに、勝手に作法を決めることになんの意味があるのでしょう? 参拝は神に向かってやるもので、人間に対してやるものでは無いはず。 それなのに、人間が勝手に作法を決める意味が分かりません。
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ベストアンサー
はっきり言っちゃうと、二礼二拍手一礼はインチキの自称「神道通」が言っているだけで、あとは不勉強な神職がつられて言っているだけで神社本庁の冊子には書かれていません。教えても居ません。っていうかそもそも「二礼二拍手一礼」なんて作法自体が存在しません。 正しくは「再拝・拍手・一拝」です。拍手の部分は出雲大社や宇佐八幡や弥彦神社などのように神社本庁とつながりがあっても四拍手をする神社があるので神社本庁では「二拍手」なんて限定していないんです。 次、「二礼」ではなく「再拝」です。二礼などという挙動はありません。礼というのは挨拶を指す言葉なので動作ではないんです。つまり一連の所作が「拝礼」「敬礼」であるということ。 次に「二拝」と「再拝」の違い。二拝は直立から上半身を90度に曲げ、一度直立してからもう一をぐり返すことを言います。これに対し「再拝」は直立から上体を90度に曲げ、ゆっくり上体を起こし、おおむね掌が膝を超えたあたりで再び90度に曲げる所作を言います。つまり神社参拝の作法を教えていて、一度起き上がってしまうのは間違いということになります。 「拝」は最上級の頓首の事で90度上体を曲げます。これは本来相手が神、天皇、仏陀などの場合に行います。 次にこの作法が決まった経緯ですが。 明治になるまでは格式のある神社はほとんど境内に立ち入ることはできませんでした。一般人は鳥居の前で参拝したんです。もちろん拝礼法など決まっていません。一礼だけや合掌でも十分です。境内に入るには御師や導引などに引率されてはいったものです。 明治以降もこれは続きましたが、村社など一部では祭礼時には境内に入れました。 戦後になり完全に国の庇護から外れたとき、神社は全て境内を開放しました。その際、神社本庁には全国の神社から「どうやって参拝したらいいのだろう」と問い合わせが来たと言います。そこで神社本庁で会議の結果が出ました。 明治維新の時に国は神道を三つに分けました。 一つは伊勢の神宮の「伊勢神道」もう一つは皇族は行う「皇室神道」そしてそれ以外の「神社神道」です。それぞれについては神職の作法のみが制定されました。今でも伊勢神道で行っている「八開手」という拍手の方法などはこれによる作法です。(一般時流行りません) 神社神道でも“神職のための作法”が定められました。一般人の作法などありません。 戦後になり一般人も昇殿参拝するようになって、その次第の中で「玉串奉奠(現在では玉串拝礼)」とそのあとの全員による拝礼が生まれました。(それ以前でも玉串奉奠はありましたが作法は定かではなかった) なので多くの一般人も昇殿参拝で戸惑わないようにということで、神職の作法の中から「両段再拝」の一部を取り出しこれを一般拝礼のやり方としてしましたのです。これが「再拝・拍手・一拝」です。 これは別に決まりとして示したのではなく「参考例」として提示しただけです。 つまり再拝・拍手・一拝を一般参拝の際の正式なやり方だなんて言ってる連中は全てデマカセだと断じて構いません。賽銭を入れるタイミングも鈴を鳴らすタイミングも決まりなんかないんです。 頭を下げるだけでも合掌するだけでも十分な参拝法です。 そして「参拝」というのは厳密には昇殿参拝を言います。我々が普段やっている拝殿前の参拝は略式参拝なので、略式の正式な方法なんてあろうはずもありません。この略式参拝を『自由参拝」と呼び、この中では社殿の前で行うことから「社頭参拝」、離れた場所から神社に向かって行う「遥拝」があります。 なのであくまで昇殿参拝時の一連の式次第の中で行う拝礼方法が「再拝・拍手・一拝」であり、その時に戸惑わないようにするために自由参拝時の拝礼法が示されただけということです。自由参拝において敬神崇祖の念を表現するのに正しいとか間違いなどはありません。
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質問者からのお礼コメント
皆様ご回答ありがとうございました。 神職の作法に何か厳格なものがあるのは、自然な気がしますが、一般人の参拝に「マナー」等と言われて、皆がロボットのように従っているのに違和感がありました。 日本人の神社内での振る舞いは、神を相手にしてるより、周囲の目を気にしているだけに見えました。 「作法」の誤解が広まった経緯をわかりやすく説明してくださりありがとうございました。日本人の意識が変わることを願います。
お礼日時:5/22 3:09