神社で「二礼二拍手一礼」は伝統的な作法ではない 宗教学者が教える“しきたり”の嘘

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様ご回答ありがとうございました。 神職の作法に何か厳格なものがあるのは、自然な気がしますが、一般人の参拝に「マナー」等と言われて、皆がロボットのように従っているのに違和感がありました。 日本人の神社内での振る舞いは、神を相手にしてるより、周囲の目を気にしているだけに見えました。 「作法」の誤解が広まった経緯をわかりやすく説明してくださりありがとうございました。日本人の意識が変わることを願います。

お礼日時:5/22 3:09

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拝礼作法というものは、神仏に自身の真心が伝わることが肝要なのであって、制定された時代が新しいからといって価値・意味がないということにはならない。そして、自分(人間)の真心を伝えるのであるから、本人(人間)が考えなければならない。 「二拝二拍手一拝」は明治時代に「どこの神社でも通用する神職の拝礼作法」として研究されて制定されたものである。あくまで共通作法であるので、その神社独自の作法がある場合は独自作法で拝礼してよいことになっている。これを一社の故実という。 おそらく宗教学者の島田裕己氏の説をもとにした質問であろうが、上記の理由により意味がないということはない。 「再拝」と「二拝」の違いについて、他の回答者が説明しているが、一般の参拝者に対して分かりやすく「二礼二拍手一礼」と説明することは悪いことではないと思う。 なお「神社神道」という用語が使用され始めるのは昭和10年頃である。この点は藤田大誠の「國學院大學における建学の精神「神道精神」の基礎的考察」(『國學院大學校史・学術資産研究』第10号)という論文に詳しい。 さらに制度上、神社と神宮は区別されたが、明治以降の神宮の神道思想を「伊勢神道」とは呼ばない。伊勢神道とは渡会氏が唱えた思想や作法体系のことであり、明治5年に渡会・荒木田による世襲制が終焉を迎えると同時に「神宮祭祀」として再編された。「皇室神道」という名称も神道人は用いない。したがって明治維新から戦前期の区分としては「宮中祭祀」、「神宮祭祀」、「神社祭祀≒神社神道」と区分した方が適切である。 江戸時代、格式高い神社であっても庶民が自由に境内に入り、賽銭箱の前で参拝できたことは伊勢詣の記録を見れば明らかである。犬ですら参拝している。

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今でも一拍手、三拍手、八拍手などを行う伝統もあります。 江戸時代には二十一拍手とか一〇八拍手までありました。 これを明治に統一したわけです。 なお、二拝二拍手一拝が最も一般的だったので、それが採用されたそうです。 ‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘ ■二礼二拍手一礼(神社祭式行事作法) 明治40年に内務省は「神社祭式行事作法」を発行して神拝法を「二礼二拍手一礼」と定めました。それまでは各神社ごとに様々な拝礼法がありましたが、明治40年には全国で 統一された方式になりました。なお、例外として出雲大社や宇佐神宮などは独自の伝統的拝礼法が認められました。

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>人間が勝手に作法を決める意味が分かりません。 神道に伝わる各種作法や所作をはじめ、言霊や祝詞ほか 秘伝や秘技の一切は、人間が勝手に発案したものではありません。 2000年以上も前から神道に伝わる【鎮魂帰神法・ちんこんきしんほう】 という秘法によって、巫者の身へ直接、神霊を降ろして憑依させ、 巫者の身体を借りて神が自ら発された貴重な教えの内容を 神代文字にて書き留めたのがその起源です。 神々が発した言葉をそのまま書き留めた文章を【神典・しんてん】 と呼びます。つまり、神道に伝わる聖典のことです。 神道の秘技の一つに『まじない』がございます。 まじないとは、神道では、呪い、とも書き、交い、とも書き表します。 (注・素人が行う世間一般のまじないとは全く別物です) では一体何と何が交わり合うのかといえば、 人間の住む現世(うつしよ)と、神々の住む神界の二つが、ある地点にて 交差して交わり合うのだと神典に記載されております。 要するに、人間が神と繋がるということです。 ここにきて初めて霊験が顕れる結果と成ります。 人間が神の世界に繋がることを〖通神〗または〖通霊〗と呼びます。 どんなに熱心に祈ったところで、神界に通神しなければ意味がありません。 その為には、神界から伝承された所作、秘伝が必要となるのです。 例えば、神社にて本殿に参拝する際にも、柏手の後に、 『あちめ・おーおーおー...』で始まる神咒を唱え、 続けて主祭神をお招きするために、 『あはりやー・あそびはすわと申し奉る...』で始まる神咒を唱えます。 あちめ・おーおーおー、、という言葉自体、一見すると何の意味が 込められているのか分かりませんし無意味にさえ思えてくるでしょう。 しかし、だからといって軽んじてはいけません。 これら一切の所作は人間が造り出した代物ではなく、 帰神法を通して、神が直に伝承された秘法なのですから。 これらを正確に行うことにより、人と神が交わり合い、 そして『まじない』が成立するのです。 神道のみならず、密教でも道教でもヒンドゥー教でも、 祈祷するにあたり、こんな事をして一体何の意味があるのだろうか? という所作は無限に存在します。 しかし、それらの疑問は結局、人間の目から捉えた三次元的な観念でしかなく、 だからといって所作に難癖をつけてどうなるというのでしょう。 そもそも、神に対し、人知を越えた不可思議な力を求めているからこそ 祈っているはずなのに、一方では、所作を小馬鹿にする精神を顕すのです。 つまりは、祈りの一方で、片や神を全否定しているのに等しい行為となります。 これは日本人特有の悪い心癖、つまり習気です。 信仰心が極めて薄く、知りもしないくせに難癖を付けて疑惑の目を向ける、 そして結局何も得られず神社を転々とし、堂々巡りを繰り返す。 残念ながらこれが日本人の本質です。 信仰とはまずは一心不乱に神佛を【信じきる】素直さから始まるのではないでしょうか。つまり日本人が最も欠落している部分です。 ですから二礼二拍手一礼にしても、けして軽んじてはならないのです。 因みに平安時代の神典にも、二礼二拍手一礼の作法が書かれており、 柏手の打ち方についての作法も何百種類と書かれております。 その中の一番簡単な作法が二礼二拍手一礼となります。 仏教の場合の仏典と同様に、 神道に伝わる神典は最重要なテキストなのです。 ですから疑問に思うことがあれば、徹底的に神典を読みあさり、 限界まで考え抜き、自ら疑問を払拭していく姿勢と熱意が必要なのではないでしょうか。

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礼儀ですね。 世の中はそいうのばかりですよ。始まりがいつだろうがそうやって礼儀とかしきたりが出来ています。それをどうこう言う意味は無いと思います。 極論すればおはようございますやいただきますだって同じ。 一方で神様がいるとして全知全能であり万物をコントロールしているとするなら、神様への儀礼もそうさせられているとも考えられます。 普通の人にあいさつで二礼なんかしない。つまり人とは区別させられているとも捉えられる。拍手だってしないし案外理屈にはかなっているのではないかと個人的には思っています。