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2022/5/18 21:14

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享保の改革で百姓一揆や打ちこわしが起こった理由が知りたいです!

日本史112閲覧

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享保の大飢饉(1731〜1732)が発生。 1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地が凶作に見舞われ、とりわけ西海道(九州地方)の被害が深刻であり、瀬戸内海沿岸一帯もまた甚大な被害を受けた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらした。 江戸時代の飢饉はだいたい東北地方で発生し、餓死者が多数出るなど人的被害が大きい。 享保の大飢饉は西日本で発生しており餓死者が多数でるほどの被害はでないはずだったが、窮乏した農民は大挙して都市部に流入した。都市部では商人による米の買い占めや売り渋りが発生して、米の値段が急騰する。これに反発した町人が打ち壊しを行った。そこで吉宗は緊急事態として米価の引き下げを行った。また享保の改革では定免法だったので、不作でも年貢は減免されないので百姓一揆がおきた。薩摩芋を育てていた島では餓死者が出なかったので、飢饉対策として青木昆陽に薩摩芋の栽培を研究普及させた。

基本的に江戸時代を通じて増加傾向。 農村は基本的に米収入が主だが、享保の改革ごろから人口がそれまでより増えなくなったから消費量が増えなくなり(米を作っても輸出するわけじゃないので、需要が同じで供給だけ増えたから)値段が安くなった。 だから農村は商品作物を作ったりして稼いでいたが、これらは飢饉の発生率を上げる可能性があるから幕府から禁止されやすい。また農村に貨幣経済が浸透すると、内職をする農民が増え、土地を手放して水呑百姓(小作人)も増える。彼らは土地がないので困窮しやすく、都市部に流入しやすい。 だから享保の改革と無関係に基本的にずっと増加傾向にある。

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税率が四公六民から五公五民に上がった。 再検地で隠田がバレてしまった。 官主導のずさんな新田開発に付き合わされてしまった。 などで、人口が減ってしまうほどに農民の生活が厳しくなったため。

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ヒント。 ・幕府の財政と農村の疲弊は関係ない ・米将軍と謳われた吉宗の改革は、最終的に百姓に負担を強いるものだった

誰とは言わんが、コピペしたなら出典元を書くのは最低限のマナーやがな。 wikiを編集した人の苦労くらい汲み取ろうぜ。