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諸葛孔明について簡単に教えて下さい。語ってください! ネタは何でもいいですが...

知の探求者さん

2009/5/1514:05:55

諸葛孔明について簡単に教えて下さい。語ってください!
ネタは何でもいいですが、ただ、前の人と違うことを書いて下さい。(但し反論・補足はO・Kで。)

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ベストアンサーに選ばれた回答

緋色悠依さん

2009/5/1521:47:10

私はあまり知られていない孔明の前半生を綴りたいと思います。

孔明が生まれた年。光和4年にはすでに後漢王朝の衰退が見て取れる出来事が起こっています。

名馬を官に徴発したが豪族が馬を買いあつめて暴利をむさぼり一部投機的な動きもあったため一頭・二百万銭も暴騰。
烏滸蛮の乱が起こって4年目。新任の交趾刺史朱儁によりようやく鎮圧、平定される。
鮮卑族が河北・山西の辺境に侵入し荒らしまわる。
しかし、後漢王朝の霊帝は後宮で宮女を相手に模擬店を開いて酒宴に楽しんでいた。また何皇后の嫉妬から王美女を毒殺するなど、地方豪族の重圧で苦しむ庶民たちや、辺境の出来事は埒外のことであったらしく黄巾の乱の下地は整っていた。

孔明の父は珪という名前で、漢末泰山郡丞(今で言えば規模の大きな知事の次官クラス)。生母は章氏からの人で三男一女をもうける。
長子は瑾(子瑜)呉に仕える大将軍左都護。領予州牧(今で言えば県知事クラス)孔明よりも七歳年上
次子は亮(孔明)蜀漢に仕えた
末子は均 蜀の長水校尉
一女は龐氏に嫁しているので、鵬雛といわれた龐統とはすくなからず遠戚に連なっていると観ても差し支えないと思われる。(記録によれば、襄陽の名士。龐山民(字は季姓とも)山民の父徳公の従弟が統(士元)孔明より二歳年上)

孔明は不幸にして父母を失うが、生母は兄の瑾が洛陽で学んでいた頃とわかっているので推測すれば孔明10歳前後の頃と思われる。程なくして父は後妻を迎えるが数年後に父も死亡し、このころ学業を終えていた兄の瑾と継母とは戦乱の華北から逃れて江東(揚子江下流域)にたどり着く。
孔明とその弟・妹は兄や母と別れて叔父の玄のもとに引き取られる。玄は荊州の劉表に招かれるかたちで移り住んだが、予章太守の後任を巡って豪族の推挙により推された玄と、中央政界から推挙された朱皓と争いになり玄は敗走して西域に逃れるが地元の族に襲われてあえなく絶命し、玄の遺体は劉繇のもとに送られた。

叔父を失った孔明は弟をつれて玄が以前に住んでいた、劉表が支配する地域である襄陽付近の南陽郡の鄧県の隆中に寓居することになる。
今の湖北省北部の孔明の家の西に「楽山」とよばれる小高い山がありにしばしば孔明が登って遊んだと伝わる。
また、楽山に登って詠ったとされる「梁甫の吟」。名宰相と呼ばれた晏子の逸話を含む姜・斎国の物語を伝える詩は、二十歳そこそこの青年の胸のうちに秘めた大望を垣間見ることが出来る。


『梁甫の吟』
歩みて斎の城門を出ず、遥かに望む蕩陰里(とういんり)。
里中、三墳あり。累々として、正に相似たり。
問う、これ、誰が家の塚ぞや。田彊・古治氏。
力は能く南山を排し、文は能く地理を絶(さわ)む
一朝、讒言を被れば、二桃三士を殺す。
誰か、能く此の謀を為す。相国、斎の晏子(あんし)。


建安十二年(207)47歳になっていた劉備は漢王朝再興の願いから、司馬徳操を訪ねて優れた人物を尋ねる。ここに三顧の礼をもって迎えられる孔明との出会いである。
三度目に草櫨を訪ねた劉備はようやく孔明との知遇を得ることが出来る。孔明は人払いをして劉備と二人きりになったとき「天下三分の計」を披瀝する。

これは。この頃の知識人の間では華北を領有する曹操と、江東流域を支配する孫一族により天下の形成が一強一弱ではあるが二分されつつ現状を踏まえれば当然の帰結といえ孔明だけが為しえた策というわけでもないと思われる。
「項羽と劉邦」の韓信将軍の側近であり参謀でもあった蒯通が、項羽が自害した後の韓信の危うい政治的な立場を危惧して献策したのも天下三分の計であり、勢力を固めて形勢を見守るといった策は孔明の専売特許、オリジナルというわけでもない模様。

質問した人からのコメント

2009/5/22 14:50:06

ありがとうございました。とてもためになりました。
他の回答者の方にもBAを差し上げたいのですが、残念です。

ベストアンサー以外の回答

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kin********さん

2009/5/1811:50:32

三国志の末期・・・
とうとう仲達軍が蜀を追い詰めた時、逃げる蜀が立ち止まると
何故か仲達軍の方が逃げ帰っていく・・・。

仲達は蜀の諸葛亮の策略が怖かった為、諸葛亮の死後も
蜀が振り返る度に、仲達の方が逃げ帰っていく・・・
そんな様子から。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす。」
とことわざが出来た。

kmb********さん

2009/5/1620:51:42

諸葛亮が子孫のために遺した家訓として伝えられるものを紹介します。なかなか考えさせられる言葉です。

『優れた人は静かに身を修め徳を養う。
無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。
学問は静から、才能は学から生まれる。
学ぶことで才能は開花する。
志がなければ学問の完成はない。』


以上は、諸葛亮の子孫達が暮らす諸葛鎮という村の大講堂に伝えられている『カイ子書』(「カイ」はゴンベンに戒)と言われるものです。
以前、NHKの歴史解説番組で紹介されました。

2009/5/1517:54:42

諸葛亮 字:孔明


彼は、大国魏に対しても、常に対等にわたってきた有為の政治家であり、
彼の功績こそが、蜀を建てたと言っても過言ではない。

彼には、漢の蕭何、張良のような才があり、劉備は諸葛亮の献策によって、荊州、益州と治め、三国の一国へと伸し上がることができた。
惜しむらくは、韓信なる人物がいなかったことである。

その為、一番の熟練者である劉備自ら、出陣しなければならなかった。
一応、龐統、法正、馬良がいたが、彼らは飽く迄参謀。一軍を指揮する人物ではなかった。

唯一、関羽がいたが、彼は、情報を大事にしなかった。
していたなら、何故、若手の陸遜が任命されたのか、呉が不穏な動きを見せるのではないか、部下が態と怠慢するのではないか、などを見抜く、又は疑うことが出来た筈だ。
今では結果論だが、そう考えることが出来る材料は、揃っていたのだ。
結局、彼の能力はそこまでだったと云える。

その為、劉備の死後は、兵を率いる大将の器量を持つ者がいなくなり、孔明は自ら戦地に赴かなくてはならなくなった。
彼の戦に対する知識は、書物のみ。つまり、馬謖のような生兵法であった。

唯、彼はそれを自覚していたのか、奇策に頼ることなく、堅実に一つ々々、叛乱(劉備の死後、各地で叛乱が相次ぎ、特に南蛮が大きく叛乱した)を潰していった。

孔明の卓抜した政治力によって、呉との戦いで財政が火の車だった蜀は建て直され、遂に北伐に向かった。
だが、この北伐は、実は殆ど物理的に無理なものだった。
例え長安が奪れたとしても、魏が兵力にもの言わせて、多方面作戦等を展開されたら、長安死守どころか、蜀軍全体が危機に陥ってしまう。

孔明もこれを知っていた筈だが、何故か北伐を敢行してしまう。
一説には、蜀のスローガンが漢朝復興の為、その姿勢を皆に見せなければ、疑心暗鬼になり、結束が崩れる可能性があるからだとか、元々、長安は眼中になく、魏と涼州を分断し、従属出来ないまでも、涼州を独立させ、魏の力を削ごうという魂胆だったとか。

結局北伐は失敗し、陣没してしまうが、蔣琬、費禕等の人材を重用したので、死後、蜀を三十年永らえさせることが出来た。
これも、彼の功績の中に入るだろう。

直、諸葛亮の軍事能力には諸説があり、第一次の際は、かなり魏を深く攻めることが出来たことと、張郃を討ち取ったり(諸説あり)、北伐で司馬懿を相手に大敗をしなかったこと等から、中々の能力をもっていたのではないかとも言われている。
だが、やはり馬謖の起用ミス等もあるので、一概に決めることが出来ない。

こんなとこでしょうか。不足の部分は他の回答者へバトンタッチです。

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