関ヶ原の戦いの後に石田三成は処刑されましたが、その子供達は男児ですら生かされて女児は子を残す事すら許されたのは何故ですか?あの時代は負けたら特に男児は皆殺しが普通だったように思うのですが。
関ヶ原の戦いの後に石田三成は処刑されましたが、その子供達は男児ですら生かされて女児は子を残す事すら許されたのは何故ですか?あの時代は負けたら特に男児は皆殺しが普通だったように思うのですが。
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石田三成が統領だったならば、三成の子らも殺されたでしょう。 それに当てはまるのは源義朝の子、頼朝や豊臣秀頼の子、国松などが該当するかと。 つまり、徳川に反乱したい人達も、横一線という訳には行かないので、誰か大将をつくらなければなりません。その大将は泊が必要なこともあり、政権に輝かしく抵抗した盟主の子孫などが担がれます。 平清盛と戦った源義朝の子、頼朝を担ぎあげた反平家の関東御家人は代表ですね。こんなことにならないように豊臣秀頼の子、国松を家康は殺しています。 対して、石田三成は現場指揮官の1人にすぎません。総大将な訳でもなく、人望がある訳でもない。三成の子を総大将にしたところで、寄ってくるのは少ないでしょう。三成の子ごときの下につくのか?というもの達すらでかねないかと。 三成が優秀でもそれがすなわちカリスマ性などではありません。なので、三成の子らは担がれる可能性はほとんどないとみて、家康はそのままだったのでしょうね。
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