藤原氏はなぜ武力を持たなかったのでしょうか

補足

皇籍離脱ではないですね。臣籍降下でした。

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単純に農民が武装しただけでは、武士になれません。武芸の基本である乗馬で戦う術が必要でした。これには高度な技術を習得する道具や環境が必要でした。 「武芸」のような特殊な技術は、特定の家系に継承されていきました。 「今昔物語」(12世紀初頭)においては、「兵(つわもの)の家」を桓武平氏・清和源氏・秀郷流藤原氏に固定しています。 武芸を継承する「兵の家」ではない者が行使する武芸は、武士の武芸とは認めない風土が出来上がっていました。 武具の一大供給地は都で、三条・粟田口・七条町にありました。「兵の家」はこれらから武具の供給を受けやすい立場にありました。特に七条町には官営市場「東市」があり、当初刀剣や甲冑など武具及び馬具は、その市でのみ取り扱うことが決められていたほどでした。都の「兵の家」が武具も殆ど占有していたことになります。 七条町は金属加工の高度な技術者集団が住み、全国から金属材料が集まる一大工業地帯と化していきます。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を作った大仏師定朝の工房もこの町にありました。平泉の寺院や仏像を作った技術者たちもこの街から旅だったと考えられています。平清盛の八条邸はまさに七条町の続きともいえる場所に位置していました。彼は伊勢から水銀を取り寄せ、日宋貿易で得た大量の宋銭を銅の材料として提供しています。義経も宿所にした源氏重代の堀川の邸宅も七条町に隣接していました。 これら産地の武具を地方の武力に優れただけの者は利用することができません。「兵の家」の武士団に加わることで武芸を学び、武具の供給も受けやすくなりました。 都において下級貴族として武芸を家職とし朝廷に仕える存在が軍事貴族でした。また土地の相続や所有の争いが起こった場合の裁定や調停に武芸の家が関わっていき、彼らが地方に下向して地方に土着することによって、その土地の者を婚姻関係や自らの傘下に組み込むことによって武士団が形成されていきました。 藤原摂関家周辺の高位の家柄からすると、受領階級は中流の低いクラスの者となります。末流の藤原氏には土着化した者がいました。 源義家は、受領を歴任し中流貴族になれましたが、次男義親が九州や山陰で反乱を起こし、晩年には三男義国も争いを起こして義家の立場が低下していきました。 以降河内源氏は、50年ほど五位昇進(叙爵)されることがなく下級官人として摂関家に従属していました。この時点では、伊勢平氏が身分的に上でした。

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「藤原氏」は、元々「百済王族(百済武王の皇子翹岐王、中大兄)に同行して列島に亡命して来た、政治的な官僚(大佐平)だからですね!」。

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源氏や平氏と同様です。頼朝や清盛並みの誰でも知る著名な人物がいないからそういう印象を受けるのでは。

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藤原氏の中にも地方へ下り、武士化したケースもあります。 奥州藤原氏も元々は道長と同じ藤原北家です。 有名な人物で言えば、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太)がいます。秀郷の子孫は武家として広がり、秀郷流と言われます。戦国の武将にも多いです。 それ以外の藤原氏を祖とする武家もいます。 他の回答に源氏や平氏が藤原氏よりも下級みたいに書いてますが、逆ですね。桓武や清和という天皇を先祖にもつ平氏や源氏は地方では貴種であり、むしろ藤原氏を祖に持つ武将の方が武家としては格下であり、源氏や平氏に取り込まれたような感じですね。

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藤原氏は奥州の覇者で莫大な黄金を保有し、軍馬も精強で奥州一三万騎 と呼ばれる大軍を擁して、鎌倉幕府を上回るほどでした。 しかし残念ながら、頼朝の切り崩しに会い義経を殺した後は藤原勢は分裂 しあっけなく頼朝の軍勢に敗れたのです。当時の藤原勢が作つた堀の後が 今でも福島県内に残っています。 いい仕事が出来なかったのだね(/ω\)

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