仏教では「六道があってそこで輪廻を繰り返す」「悟りを開いてその輪廻から解脱することが仏教の目標」という風に解かれています。

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上記に誤りがありました。中頃の箇所を次のようにしてください。 【訂正】  だから用語として「転生」も「輪廻転生」も佛教にはない、と考えた方が良いでしょう。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様、とても詳しく教えていただき、ありがとうございました! まだまだ勉強が足りない私ですが、皆様のおかげで少し理解が深まった気がします。 どなたをベストアンサーにしようか迷いましたが、輪廻について私なりに納得させていただいたこちらの方を選びたいと思います。 皆様ありがとうございました!

お礼日時:6/21 1:52

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2022/6/20 11:05

仏教に限らず、五大教の最終目標は「悟り」を啓く事です。 「人生」人が生まれ、生きる目的、意義はその為のものです。 「菩薩行=善行による積徳」を行い「悟り」を求める者を「菩薩」と呼び、その「行」を「菩薩行」と言います。 「悟り」は、三界の中の人間界の人間のみに許されるものです。 他の二界は、人間界での行状(善行・悪行)によって逝く所です。 「悟り」を啓いた者は、三界輪廻を解脱し、三界とは別の極楽天(兜率天)に帰り永遠の生命を得ます。 「弥勒菩薩」は極楽天へ帰り、「弥勒仏」となり、再度、祖神(阿弥陀仏)の命により、下生され衆生済度されています。 当然、「悟り」を得られる親元に生まれ、衆生済度されています。 釈尊の本来の教えは「仏道」と言います。 この「仏」とは、霊が肉体に宿ると「人」、そして臨終後、肉体から抜けると「仏」又は「如来」と呼称を変えます。 人は「霊」と「仏」の間に存在するから「人間」と言います。 霊は「神の子」で、神と仏の本質は同じです。一度肉体に宿れば、「仏」と呼ばれ、その行状(輪廻)を説かれたのが「仏道」です。 この「仏(霊)が輪廻転生」を終え、故郷の極楽天へ帰る事を「解脱」と言います。 私達は皆、自らの肉体に「神の子=菩薩=仏」を宿しています。 是が「即身仏」の所以です。 また、これを知る(心眼で観る)ことを「観自在菩薩」と言います。 「悟り」は、三つの秘法からからなります。 迦葉尊者に授けられた時は、教外別伝「不立文字、以心伝心、微妙の法門」と言われています。 般若心経の中では「三藐三菩提=三つの小さな悟り」「是大神呪、是大明呪、是無上呪」このように言われています。 悟りは「天機」で、そのものズバリを公言したり、書物に記すことが出来ません。これが「密教」の由来です。 それ故、大仏開眼、神眼を開く、眼横鼻直と言われたり、大仏の額に「白毫」を印たり、キリストは「十字」等で謎掛けをされるのです。 これ等は「道理」による解釈です。 道理とは、あらゆる「真理」を網羅した「道」の教えで、五大教の教祖や聖人と言われる方々が最後に出会った道で、神代の時代から連綿と継承されてるものです。 「真理」とは、天理、地理、物理、性理、倫理等、時代や国が代わっても、絶対的に正しく、変わらない教えです。 「悟り」は、その中の「性理」で解き、本来の宗教は「倫理=道徳」を基にしたもので、その中に悟りはありません。 この事を釈尊は「諸法無我」諸々の救いの為の教えの中(諸法)には、我(霊)の教えは無いと言っています。 また「諸行無常」とは、この霊の永遠性に対して「この世界に恒久的な物は無い」と言ったものです。 是は、恒久性が無い世界で、欲に奔走、執着し、酔いしれている事への戒めを説いた言葉です。 現在は、釈尊の真の教え(仏道)と、大乗仏教の教えが混濁し矛盾や誤解、難解さが生じています。 現在の仏教は、釈尊没後500年後に生まれた大乗仏教を主としたもので「仏陀の教え」が後に「仏教」と言われるようになったものです。 肉体が我で、空・無で、すべて幻想であり、それを認識し、理解度により、悟りも段階があるとされています。 現在、目にする般若心経の解釈も、大乗仏教によるもので、「我は、不死を得たり」の「我」を肉体としたことが始まりです。 これ等は後世の仏典等の解釈の間違いで、口伝により、釈尊の本来の教えとは異なったものになっています。 大乗仏教を完成させたのは、釈尊の第十四代の後継者の龍樹で、本来は釈尊の教えを継承したものです。 この「我、不死」の真意は「霊=我」の事で、霊が輪廻を解脱し、極楽天へ帰り、不老不死の永遠の生命を得られる故です。 現在は末世(末法)で、宇宙規模の大災難を前に、ある程度、修行が出来た者へも悟りの道(正法)は開かれています。 すでに、その前兆は世界規模で起きています。 ここ2、3年の大洪水、森林火災、台風、地震等の激しさがそうです。 その為、弥勒仏が下生され、衆生済度されています。 悟り、道は求める程離れて行きます、善行による前世からの積徳の先にあるのが悟り、道です。 私達には前世の積徳は分かりませんので、今を誠実に精一杯生きることが大切です。 「悟りの縁」は向こうからやって来ます。 良縁に出会われる事を祈念致します。 下記で釈尊の真の教えを知る事が出来ます。 (参考 悟りと般若心経 谷神一 著書)

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> 五大教の最終目標は「悟り」を啓く事です 五大教とはキリスト教とかイスラム教とかを含んだものという意味でしょうか。これらの宗教の最終目標が悟りとは… 書かれていることは仏教用語や概念が散りばめられてはいるものの、なんだかあちこちの宗教を独自で合体させてまとめているように思えます

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六道・輪廻・天界などは全て迷信です。仏教の長い歴史の中で付け加えられたものであり、本当の仏教ではありません。 もし本当の仏教を知りたいなら私が書いた小説を読んでみて下さい。 「仏陀 ~耳ある者どもに不死の門は開かれた~」 https://ncode.syosetu.com/n1531gk/

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仏教は人間の心の状態を(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)界の六つに分類しています。これを六道と言います。「界」とは状態のことです。「地獄」は絶望している状態ですが誰かの助けを借りて希望が持てれば抜け出すことができます。このとき助けてくれた人を良縁と言い芥川龍之介の童話「蜘蛛の糸」に通じます。「餓鬼」とは尽きることのない欲望に苦しめられていることです。「畜生」とは理性よりも本能が勝っていることで苦しむことです。これらの煩悩を克服するために人は祈ったり座禅を組んだり滝に打たれたりと様々な努力をしてきました。 「修羅」とは常に他人との戦いや競争を強いられることで苦しむことです。受験と言う戦いが終わっても社会に出れば常に競争を強いられます。これも競争を楽しめるようになれば苦しむことは無くなります。「人」とは平穏な心の状態のことです。「天」とは有頂天になると言うように夢がかなって天にも昇るような喜びの状態のことです。人間の心は六道のどれかに固定されているわけではなく日々移り変わっています。この移り変わることを「六道輪廻」と言います。 仏教は生まれ変わるというのが基本の考え方です。生まれ変わるのですから天国や地獄が現実とかけ離れた所に在ったのでは辻褄(つじつま)が合いません。天国も地獄も現実の世界で見ることができます。例えば金持ちの幸せな家庭に生まれる子供と、貧乏で親から虐待されるような家に生まれる子供、この違いが天国と地獄です。他には平和な国に生まれる子供と戦争が絶えないような国に生まれる子供、この違いも天国と地獄です。天国や地獄は生まれる場所のことなのです。仏教は天国ではなく天界と言います。又人間に生まれれば人間道、動物に生まれれば畜生道と言う言い方もあります。 「覚る」と「悟る」の二つの漢字があります。日本ではどちらも「さとる」ですが中国語は読み方が違うし意味も違います。「覚る」は覚醒するとか目覚めるという意味で、誰もが備えている仏性を覚醒させるという意味であり、これを成仏(覚りを開いた)と言います。 人間の内面には鬼と仏性の両面を併せ持っているというのが仏教の教えです。仏性とは慈悲のことです。慈悲とは地獄に在る人に救いの手を差し伸べたい、苦しんでいる人を救いたいと思う気持ちであり、それを実践するのが成仏の道である菩薩行です。ボランティアも困っている人を助けるのも虐待されている子供を救い出すのも菩薩行です。菩薩行を重ねることで仏性がその人の人格となる。それを「覚りを開いた」とか成仏した(仏に成った)と言います。 「悟る」は気付くとか理解するという意味です。釈迦は人間の悩み苦しみの根本原因が何なのかを悟った(気付いた)ということです。その根本原因は煩悩であるということです。原因が分かれば、それを克服するにはどうすればいいかを悟る(気づく)ことができます。その他にも釈迦や後に仏となった弟子たちが悟ったことが膨大な経典として残されています。「悟りを得た」とは迷いが消えると言う意味です。 解脱とは呪縛から抜け出し解放されるという意味です。自分を縛っているものが三つあります。 一つは煩悩からの解脱です。苦しみの根源は煩悩にあるとされ、釈迦は煩悩を滅すために厳しい修行をしていましたが、そのような修行は無駄であることを悟り「煩悩即菩提」を説いています。煩悩とは欲のことであり菩提とは覚りを開いた仏の境地のことです。煩悩が菩提であるとは仏にも欲望があり苦しんでいる人々を救いたい笑顔にしたいという思いが仏の欲望です。利己的な欲望ではなく利他の欲望であれば煩悩が菩提となる。これを「覚りを開いた」と言います。 二つ目は無明からの解脱です。無明とは無知とも言い、知らないという意味です。自分が煩悩に支配されて生きている事実に気づいていないとか、生・病・老・死の苦しみから逃れる方法を知らないという意味です。この無明から解脱することを「悟りを得た」と言います。 三つめは六道輪廻からの解脱です。ヒンズー教は魂の消滅が目的であり、六道輪廻から解脱は輪廻転生からの解脱であると説いています。釈迦も最初はそれを踏襲していましたが後にそれを否定し、六道輪廻からの解脱による「成仏」を説いています。六道の上は声聞・縁覚・菩薩・仏です。従って六道輪廻からの解脱とは仏の道に入る事を言います。 法華経にはどんな修行をしたとしても、菩薩行をしなければ仏に成れない(仏成)できないと書いてあります。そのことを示しているのだと思います。

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詳しくありがとうございます。とても勉強になります。 釈迦の「六道輪廻からの解脱による『成仏』」、もう少し勉強を深めたいと思います。 菩薩行の必要性を説いた法華経、素晴らしいですね。

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輪廻を説明する時の六道輪廻という言葉は、便宜上の言い方です。 詳しくは、かなり複雑です。 輪廻して行く世界は、大きく三つに分類されます。 欲界、色界、無色界の三つです。 欲界に、地獄から人間界、そして天界(六欲天)までの六道があります。兜率天は、六欲天の一つ。 色界、無色界は、梵天界とも呼ばれます。 つまり、天界と言った場合には、厳密には、六欲天、色界梵天、無色界梵天の三つがあるということです。 欲界の天界(六欲天)では、悟れません。天界での楽しみを受けるだけです。そこでとても長い寿命を経た後で人間界に輪廻します。 欲界の人間界に輪廻して修行して悟ります。 兜率天にいる弥勒菩薩は、ずっと後に、仏教が廃れてしまった時代に、人間界に輪廻して来て、修行を完成させてブッダ、如来となって仏教を説くとされます。 また、悟り、修行の完成は、色界梵天、無色界梵天でも可能です。それらは、人間界での修行のレベルに応じて輪廻する世界です。人間界で修行して悟れなくても、修行の達成度に応じて梵天界に生まれ、そこで修行を継続して悟るということです。 以上が、経典に書かれていることです。そして、まだ細かい説明があるのですが省略します。 それを、現代人が様々に解釈しているということです。例えば、釈迦は輪廻を否定したとか、輪廻は、嘘で方便だとか。 しかし、どの解釈にも、その解釈が正しいという証拠はありません。 そして、経典の記載が正しいという証拠もありません。 また、浄土宗、浄土経典には、極楽浄土という世界があります。それで更に話がややこしくなります。 興味があるなら、ゆっくり、じっくり学んでみて下さい。

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>> 悟り、修行の完成は、色界梵天、無色界梵天でも可能です。それらは、人間界での修行のレベルに応じて輪廻する世界です 修行のレベルに応じて色界あるいは無色界に輪廻するということなら、それって「これだけ修行すればこういう良い世界に行ける」という執着(煩悩)ということになりませんか…? それから、兜率天にいる弥勒菩薩が「人間界に輪廻して来て、修行を完成させてブッダ、如来となって仏教を説く」というのはどの経典に書かれているでしょうか 経典には様々なものがあります。経典に書かれていることが正しいのか、(古来からのものも含めて)その解釈が正しいのかどうかも私にはわかりません。ただ私は仏教は素晴らしい教えだと思っているので少しずつでも学んでいけたらと思います。 細かくありがとうございました。

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確かに解脱出来るのは六道内でも人間だけなのは確かだよ ただ悟りは関係ないけどね 弥勒菩薩は自身の浄土を完成させて如来に成ってから、自身の浄土に衆生を救うために次の地球に応身するんだよ この地球ではお釈迦様みたいにね

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>> 確かに解脱出来るのは六道内でも人間だけなのは確かだよ 「確かに」というのは心強い言葉です。 どの経典に書かれていたのか教えていただけませんでしょうか