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香淳皇后のWikipediaを見ていて気になったことが一つあったので質問させていただきます。

歴史 | 日本史213閲覧

回答(2件)

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ここで記載されている理由は、「表向き」の差し障りのない理由でしょう。 昭憲皇太后は一条忠香の実子で、一条朝子は系図上は、忠香の孫の孫になります(実際には女系を通しての曾孫になります)。昭憲皇太后の「実子」とされている大正天皇とは5親等離れていますが、実際には大正天皇は柳原愛子の所生なので、生物学的には何の問題もありません。 これは一条家が短い間隔で、皇后を出すことに、他の摂家からの反発が予想されるゆえの忌避でしょう。 方子女王は鍋島家の外孫になりますから、薩長土肥のバランスから言って、特に薩長閥からの反対が予想されました。良子女王についても山県有朋ら長州閥は、宮中某重大事件のことがなくても、島津の外孫である良子女王には強い抵抗を見せていたほどです。 良子女王はそれでも薩閥(大山巌ら)の支援を期待できる立場でしたが、佐賀藩の場合は、大隈重信くらいしか有力者で残っていなかったので(しかも大隈は鍋島家が大嫌いでした)、方子女王が藩閥の残滓が残る中で、皇太子妃として身を建てることが難しいと判断されたのでしょう。

梨本宮伊都子妃(方子女王の母)は、華族社会でのキーウーマンになる女性です。妹の朗子は前田家に嫁ぎ、その娘が婿を取る形で加賀前田家を継承しています。 朗子の夫の先妻は松浦氏の出ですから、明治天皇の外戚の外戚です。薩長藩閥に対抗し得る、旧大名家閨閥の中核にいたのが方子女王とも言えるでしょう。薩長は当然、警戒を強めたと思います。

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ウィキペディアは正しいことも書いてあるますが、編集者の主観が入ってしまうのでこのような内実を知るものでなければ書けないことを憶測で書いてしまったのでしょうか。 方子女王と皇太子の年齢については理由とはなり得ないと思います。 昭憲皇太后(皇后)と明治天皇も皇后の方が年上でした。 方子女王が選ばれなまったのは、久邇宮(兄)と梨本宮(弟)の関係を勘案して方子女王が外されたと私は書籍で読んだ記憶があります。 貞明皇后は、当時の良子女王にはあまり良い感情を抱いていなかったようです。(聡明で勝気な貞明皇后は、万事マイペースな良子女王と合わなかったのでしょうか。摂関家の出である貞明皇后は宮家から后を迎えるのには消極的だったという指摘もあり) 一条朝子については、大正天皇は昭憲皇太后の養子となり表向きは昭憲皇太后が母となりますが、ご存じのように生母は柳原愛子です。 血縁関係とするより、摂関家(一条家)から再び后を迎えるより宮家から迎えたいという政治的な思惑があったのではないでしょうか。

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