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現在の敦賀市の市域は越前国。越前国敦賀郡。 越前と若狭の国境は敦賀市と美浜町の間。古代律令制による地方行政が確立した頃から「越の国」の西端は関峠(敦賀市と美浜町の間)と決められていた。 福井県の地域区分には「越前」「若狭」の令制国(旧分国)とは別にもう一つ、「嶺北」「嶺南」がある。ここでいう「嶺」は「木嶺(もくれい)」、すなわち北陸道の木ノ芽峠を中心とした山中峠~木ノ芽峠~栃ノ木峠の稜線を指していて、この区分だと敦賀市は若狭地方と同じ「嶺南」に属するから、ややこしい。 敦賀は上古の時代はヤマト王権とコシ(越・高志・古志)の国の独立勢力との境界にあり、木嶺以北がコシの勢力圏、すなわち敦賀に関してはコシの一部とは見られていなかった時代もあるようだ。しかし大和朝廷による地方支配が進んだ律令期以降、敦賀は北陸道の入口として一貫して越の国(7世紀末の大宝律令で越前・越中・越後の3国に分立、のち越前から能登と加賀が分かれる)の一部と見なされてきた。 敦賀は畿内から見て越の国、のちの越前国の入口という位置付けで、越前国一の宮は敦賀にある気比神宮に定められた。気比神宮から船出し日本海を北上して、羽咋の気多大社を経て、さらに海上から弥彦神社がある弥彦山を望むあたりまでが、古代の「越の国」の範囲だったらしい。 しかし実際の地形上は、敦賀の北に位置する木嶺(木ノ芽峠を中心とする大山塊)が大きな交通の障害となっている。古代の官道の北陸道は木ノ芽峠を越えていたが、木ノ芽峠越えはあまりに険しい山道で特に積雪期の冬期の通行は困難を極めたため、中世には北陸道(北国街道)は敦賀を経由せず、近江国余呉・柳ケ瀬から北上して東の栃ノ木峠(木ノ芽峠と同様豪雪地ではあるが木ノ芽峠より90m標高が低い)を越え、越前国今庄に至るルート(現在の国道365号)に変更されている。 敦賀と今庄の間は、同じ越前国の領域だったにもかかわらず、木ノ芽峠があまりに難所だったために中世には北陸道(北国街道)のルートから外され、木ノ芽峠を境に別の国のように扱われていた。 近代の鉄道も道路にとっても木嶺越えは重大な交通上のネックで、明治の国道12号(現8号)や北陸本線は険しい木ノ芽峠を避け、海岸部の杉津(すいづ)を経由して山中峠を越えるルートを採った。しかしそれでも、特に鉄道は連続する急勾配を避けられず、木嶺越えに大変な所要時間を費やした。北陸本線という東西の鉄道の大動脈上にあったため木嶺越えは物流上の深刻なネックで、1962年(昭和37)に木ノ芽峠の真下を通過する全長13,870mの北陸トンネル(完成後10年間は日本一長い鉄道トンネルで、現在も在来線の陸上トンネルとしては日本最長)が完成してようやく高速化が実現する運びとなった。 同じ福井県内で、同じ越前国の中で、当時日本一長い鉄道トンネルを掘らないといけないぐらいの巨大な障害が横たわっていたということだ。 当然、同じ越前国でありながら敦賀郡は木嶺以北の福井平野一帯とは隔絶され、気候・風土・文化の諸点で越前の他地方とは大きく異なっていた。 木嶺の険しさに比べれば、律令期から越前・若狭の国境とされてきた関峠は峠と呼ぶのさえためらわれるような、緩やかな勾配に過ぎない。 だから敦賀は若狭国と一体の文化圏を形成してきたし、江戸時代も小浜藩の一部で、若狭地方とは政治的・経済的にも強く結ばれていた。古代以来の北陸道に属していても、越前国敦賀郡と若狭国は京都・近江と強い親和性があって近畿文化圏に属し、木嶺以北の越前国が金沢・福井を中心とする北陸文化圏に属するのと対照をなす。 敦賀は、畿内と北陸とを結ぶ交通路上に位置していたから越前国に入れられたけれど、本来の気候風土や文化の点では若狭国と一体の地域。 嶺北・嶺南という地域呼称は、現在の福井県が設置された1881年(明治14)頃に、県庁の役人が「木嶺以北/以南」と呼び始めたことに由来する比較的新しい地域呼称とされる。実際に福井県を気候風土や文化の点で二分しているのは越前・若狭国境の関峠ではなく、木嶺に他ならなかったために、実態に適っていたのだろう、県民の間で広く用いられる用語となった。
質問者からのお礼コメント
うわー、これは詳しく、ありがとうございます!! 私は長いこと敦賀は若狭だと思っていたんですが、氣比神宮が「越前国一宮」と紹介されているのを見て「越前だったのか」と思い質問した次第です。やはり敦賀は越前とはいっても、福井平野とは違う文化圏で、若狭と一体の地域であるように思います。 他の皆様も、どうもありがとうございました。
お礼日時:7/2 17:47