秩父市立影森中学校の校長だった小嶋登は当時、荒れていた学校を矯正するため「歌声の響く学校」にすることを目指し、合唱の機会を増やした。最初こそ生徒は抵抗したが、音楽科教諭の坂本浩美と共に粘り強く努力を続けた結果、歌う楽しさによって学校は明るくなった。
「歌声の響く学校」を目指して3年目の1991年2月下旬、坂本は「歌声の響く学校」の集大成として、「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、世界にひとつしかないものを残したい!」との思いから、作詞を小嶋に依頼した。その時は「私にはそんなセンスはないから」と断られたが、翌日、坂本のデスクに書き上げられた詞が置かれていた。その詞を見た坂本は、なんて素適な言葉が散りばめられているんだと感激した、とラジオ番組への手紙で当時を振り返っている。その後、授業の空き時間に早速ひとり音楽室にこもり、楽曲制作に取り組むと、旋律が湧き出るように思い浮かび、実際の楽曲制作に要した時間は15分程度だったという。
出来上がった曲は、「3年生を送る会」で教職員たちから卒業生に向けてサプライズとして歌われた。この年度をもって小嶋は41年に及ぶ教師生活の定年を迎えて退職したため、小嶋が披露したのはこれが最初で最後となった。元々はこの1度きりのため作られたはずであったが、その翌年からは生徒たちが歌うようになった。
しばらくすると、近隣の小中学校でも歌われるようになった。当時東京都の中学校で音楽教諭を務めていた作曲家の松井孝夫は、この曲を知ると混声三部合唱への編曲を行った。これが音楽之友社の雑誌『教育音楽』に取り上げられたことで、1998年頃までに全国の学校で歌われるようになった。
さらには、2004年3月に『情報ライブ EZ!TV』で取り上げられたことや、2007年にSMAPが出演するNTT東日本のCMソングに起用されたのをきっかけに、小中高校の卒業式で定番のように歌われるようになった。