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京都の歴史について、ちょっと知りたいことが。

sum********さん

2009/7/1203:06:08

京都の歴史について、ちょっと知りたいことが。

京都と言えば古都・京都ですが、京都って首都に指定されるまではどんな位置付けだったんでしょうか?
京都の前は奈良がやっぱり日本の中心ですよね。大和って有名ですし。
それなのに何で奈良からわざわざ無名の京都に首都を移してしまったんでしょうか?
同じ京都の地でも、長岡京はたった10年の首都だったのに、何で平安京は1000年も続いたんでしょうか?
やっぱり当時の貴族の力関係のせいですか?
奈良の貴族vs京都の貴族みたいな戦いがあったんですか?

まとめると、

・長岡京・平安京に至るまでの京都(当時は山城とか葛野でしょうか)の位置付け
・どうして歴史ある大和の地から、京を移してしまったのか
・平安京が首都として選ばれ、1000年も続いたわけ
・京都の有名な古代豪族は誰?やっぱり賀茂氏?

こういうことが知りたいです。詳しい方お願いいたします。

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nom********さん

2009/7/1210:39:11

①京都の古名の山城の字からも読み取れるように、奈良や、瀬戸内海から和歌山、三重、愛知に至る太平洋岸の諸地域(港)に対し、もともとは鄙びた地域でありました。
②天皇(大王)の即位とともに、新たに宮を造ることが当たり前、の時代がありました。宮は本来、天皇個人に付随した神を祭る儀礼のフィールド、であったからです。祭りごとが政りごとになるにつれ、その規模は徐々に拡大されていってはいたのですが、白村江の戦いで大敗北を喫し、権力層が国家の存亡すら意識せねばならなくなったことで、国家整備が最優先事項とされて、宮とは次元の異なる規模の、京の建設が新たに緊急に求められたのでした。壬申の乱を経て権力を掌握した天武天皇は、飛鳥浄御原宮に拠を定めましたが、京の建設は悲願であったようで、おそらく副都としての機能を想定していたであろう難波宮を建設し、更には、念願の藤原京の建設に着手したようであります(異説あり)。
後、藤原京の実験を経て、やっと完成したのが平城京ですが、そこで、(聖武天皇が厚遇し、権益を既得した)奈良仏教勢力の伸長といった問題にぶつかります。桓武天皇は、名前に武の文字が付くことからも分かるように、権力基盤の拡充に心血を注いだミカドです。皇位継承に紛争もあったので、その穢れや祟りから逃れる、との意味をも唱え、その実、自身の皇統(天智天皇系)の権勢の証明と、仏教、貴族勢力から切り離された天皇親政とを第一義に目指し、平安京の造営を行ったようです。長岡京はその壮絶な権力の綱引きの中間地点であり、結果から述べると、平城京を超えるための実験場であった、ということになるようです。
遷都の際の、土地の選定基準となったのは、当然、既存の権力集団の影響を受けにくい地域であること(奈良から、ある程度の距離があること)。京の規模を収めて、なおかつ、その周りには天然の要害があること(即ち、盆地のような場所)。更に、縁起の良い地相をしていること(四神相応)、などでした。
③平安京規模の京の建設は、そうは簡単にできるものではありません。体制の上でも、かつての国家目標であった中央整備の一つの到達点でもあったので、これ以上を目指すのは難しく、又、次に遷す、としたら、いったいどこに、と迷ってしまいます。大陸と異なり、土地の制約は大きいのです。更に、南都で旧勢力と結んだ藤原氏(氏社は春日神社、氏寺は興福寺)は、平安京でも実権を握り、そのまま摂関政治の時代の突入すると、天皇親政による遷都など、到底不可能となってしまったのでした。実際、藤原氏という権力の元で、一旦文化的な厚みが形成しだされると、余計にそれは難しくなり、結局、覆すには新たな権力の登場を待たねばなりませんでした。
鎌倉に武家政権ができた後も、天皇と平安京が存続したことにより、その文化的、精神的な価値は一段と増して、一層揺るぎないものになったようでありました。
④畿内とその周辺の古代豪族といえば、大伴、物部、巨勢、平群、葛城、紀、蘇我、などが思い浮かびますが、山城の古代豪族と云えば、仰るように、賀茂氏でしょう。この賀茂氏が、奈良の葛城と関係があるのか別系なのか、秦氏と同じく比較的に新参の渡来系なのかは、残念ながら分かりませんが。少なくとも、賀茂氏が京都の土地を基盤として、そこで神を祀っていることからも、土地と氏族に深い繋がりがあることが察せられますね。

質問した人からのコメント

2009/7/12 22:16:01

感謝 大和の地では仏教や貴族の力があまりにも大きくなりすぎた、ということでしょうか。

桓武天皇「大和は仏教徒や貴族がうるさいや。ここじゃ動きにくいな。私(天智天皇系)の力も発揮しにくいし」
賀茂氏・秦氏「うちの土地はまだ仏教や他の貴族の力も大きくないし、天然の要塞だし、縁起もいいよ。だからうちに越して(京を移して)きなよ」

って感じだったんでしょうか。面白いですね。
回答して下さった皆様ありがとうございました。

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bis********さん

2009/7/1212:51:36

・長岡京・平安京に至るまでの京都(当時は山城とか葛野でしょうか)の位置付け
・京都の有名な古代豪族は誰?やっぱり賀茂氏?

えーっとね、遷都まで、秦(はた)氏っていう氏族が京都の盆地
に勢力をもっていて、その自分の土地を差し出して、平安京を
可能ならしめたんだね。
秦氏は渡来氏族で、遷都した桓武天皇と結びつきが強かった、
と考える人が多いね。
#無理に取り上げたので、桓武天皇と仲が悪かった、
#説はあんまり聞かないのよ。

有名な弥勒菩薩像がある広隆寺、は平安京以前からある
お寺で、秦氏の氏寺。場所も太秦で、秦氏と関係深い
(場所は、平安京造営時、現在の場所に移転らしいが。)

というわけで、秦氏の拓いた土地、だったらしい。

・どうして歴史ある大和の地から、京を移してしまったのか
・平安京が首都として選ばれ、1000年も続いたわけ
平安京が居心地が良かったからでないかな。
逆にいうと、これまでの宮はだんだん居心地が悪く
なって、遷都したのさ。
その居心地を決める大きな理由を”汚物処理”
に求める人が多い。
単なるごみ、もそうだけど、し尿処理の問題って
ことだね。平安京は、水で流すのに便利な土地
だった、ってわけさ。

あと、単に遷都した理由としては、
勢力を増してきた寺社、貴族勢力との抗争説
(定説だね)も重要なポイントです。
ただ質問者は、
・今まで遷都は頻繁だった
・でも平安以降は遷都がない。(ないし明治までない)
という意識と思うので、汚物処理説の方が、ご納得
でしょう。

tkh********さん

2009/7/1210:29:11

日本海側との交通の便、
若狭湾などから陸路琵琶湖北岸へ、琵琶湖から船で人や物資を大量に運搬→琵琶湖南岸の大津→陸路数時間で今の京都市内
太平洋側との交通の便
京都市内→鴨川など→淀川→大阪湾

奈良の場合
盆地なのでどこへゆくにも一山越えなきゃなりません。例えば今の奈良市内から木津川で物資や人を運ぼうとすると笠置山が控えてます。

二つを比べたときに、交通や貴族の生活を支える物資の運搬という意味で京都の方が格段に便利です。

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