古墳時代の渡来人にゆかりのある地名・固有名としては、大阪の百済川・百済王神社、埼玉の高麗川・高麗神社、各地の新羅神社など朝鮮半島由来のものが多いです。

画像

日本史 | 国際情勢123閲覧

1人が共感しています

ベストアンサー

NEW! この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/8 7:50

その他の回答(3件)

雄略天皇の時代「対高句麗のため、蓋鹵王はかねてより百済民族の東漢人を飛鳥へ集団移動させており、その後、高句麗軍に攻め落とされ、蓋鹵王は処刑された。」とあります。 飛鳥というと飛鳥時代の都ですが、4世紀頃は湿地帯で住みにくく5世紀ごろまでは開発も進んでいなかった不便な土地でした。 こういった土地をあたえられて開墾したのが百済からの移民です。 ヤマト王権による新羅の民のような目だった集団移住はあまりなかったようですが、半島から飛鳥への移住そのものがヤマト王権の意思でなかったかと考えられます。 この百済の民の集団移住で、一番の利益を得たのが飛鳥を地盤とする蘇我氏です。 ゆえに、蘇我氏は百済人とも言われていますが、真意はわかりません。 その後、百済移民の労働生産力で力を付け政権にデビューし、物部との政争に勝利しあれよあれよという間にトップに駆けあがります。 その後も百済移民を受けいれていきますが、乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺されてからは、百済移民は河内などへ移住する事になります。 【東住吉区の百済の地名より抜粋】 天智天皇3年(664年)紀3月条 残された善光に難波(天王寺区堂ケ芝・百済寺跡と細工谷・百済尼寺跡)に住まわせる。 以後、天武天皇、持統天皇の時期には百済王として優遇されており、百済人が善光を頼って続々と亡命してきたので、この一帯(現在の東住吉区)を百済と呼ばれるに至った。 善光は第31代百済王・義慈王が唐や新羅に攻められて、大和王朝に救援依頼のために送った人質の2人の皇子(豊璋と善光)の弟です。 聖武天皇(続)天平21年(749年)紀4月22日条 善光の曾孫・敬福(キョウフク)は、大仏建立のために黄金900両を献上し、従5位陸奥守から従3位河内守に4階級も特進したが、一族の住む場所が次第に物流や交通の要所となるに及んで、天皇は敬福一族を枚方の地に移住を命じ、難波の百済は消滅する。 枚方市禁野1丁目に立派な三松家の墓地があり、百済王族末裔の墓であるとされている。 また、明治初期における砲術家や神官となった三松家の4人の経歴を枚方市史は百済王族の子孫と伝えている。枚方市の百済寺跡は廃墟となっているが、国指定の史跡である。

京都の太秦がありますね また京都府綾部市も元は漢部と書いたようです そういうのを含めるとかなり多くなりそうですね