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なぜ宗教家や思想家は自分こそが正しいと主張できるのでしょうか?

ダメヒューマノイドさん

2009/10/714:11:28

なぜ宗教家や思想家は自分こそが正しいと主張できるのでしょうか?

自分は宗教というモノを信じてはいませんが、ある種の宗教の思想にはとても感銘を受けます。
特に中国の老子と原始仏教の思想は、認識の哲学だと思っています。
自分の考えでは、これらの思想は人間の思考の傾向と限界について教えだと考えています。
なぜなら人間の脳の思考回路は万能ではなく、認識でき難い現象や、逆に全く関係ない現象を繋げて連想してしまう傾向があります。
数学的な意味で完全な世界(エネルギー等の現象を数式で表せるという意味)を、不完全な人間の思考回路で認識すれば、認識された現実はおのずと無理や矛盾が生じますよね。
何が言いたいかというと、なぜ宗教家や思想家は自分こそが正しいと主張できるのでしょうか?言い換えれば、不完全な思考しか持たない人間が、これが正しいとか間違っているとかで宗教や思想を議論するのは無駄ではないですか?

補足補足しますが、正統性を主張することが無駄だと思っています。どんな素晴らしい考えも所詮は多様性の中の一部に過ぎないのですから。

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kat********さん

2009/10/714:56:05

そうですね。宗教家や思想家は身の程知らずなのでしょう。

それゆえ、ソクラテスは、無知の知を説いたわけです。

あなたのおっしゃるように、人間の脳は完全ではないので、脳が考えることは大抵間違っているはずです。

しかし、人間が考えていると思うから、間違えるのです。すなわり人間、つまり人間の脳が考えているのではなく、教えられているのです。

つまり、宇宙が、人間の脳に伝達して、人間に教えているのです。大人が子供に教育するようなものです。

だから、宇宙が、人間の脳を、実験室として、利用しているわけです。人間は、宇宙の意志をもった実験動物みたいなものです。

だから、人間の思考や行動には間違いがありますが、いずれ人間自らが自分で修正できるように、宇宙がその方向へと導いているわけです。

だから正しいと人間が考えたことも、ときがたてば、間違いとなり、新しい考えで修正されるので、無駄ではないのです。

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jik********さん

2009/10/1421:48:33

宗教家の言う「自分こそが正しいと主張」というのは、普通の社会一般のレベルでの「正しさ」とは、意味が違っているんですよ。

宗教家の考える協議に「従う」ということを、論理外の暗黙の前提としないと、「正しさ」は成り立たないんですよね。ですから、宗教的「主張」は、社会一般レベルでは通用しません。「従う」という周囲の同意がないですから。

普通、社会一般レベル、つまり国家の枠組みの中で法律上「正しい」とされれば、権利として保護されて、国家が権利の実現に助力してくれますよね。だけど、宗教家の「正しさ」というのは、国家からは見向きもされません。せいぜい、信教の自由として、放置プレイをくらっているだけなんですよ。つまりは、自己満足の範疇を超えないということなんですね。宗教というのは。

ですから、質問者様がおっしゃるように、宗教については「議論」することは無駄です。宗教家が、宗教を信じなさい、なぜなら正しい教えだからだという場合は、論理になってないんです。要するに、議論なんてなくて、「従え」と議論外で「強要」しているだけですから。

だだし、個人が信じていること自体は、他人が否定はできません。そのことは、個人の中では重要何でしょうから、尊重されなければなりませんね。もっとも、国家レベルでは放置プレイのように、人権侵害しない限りは、余計な介入しませんということしか意味しないんですけどね。

思想については、さまざまな思想がありますので、言及は避けさせてもらいます。

yog********さん

2009/10/1415:14:09

私が思うに、あらゆる宗教、あるいは精神世界、あるいは科学も含めて、

たどり着く場所は同じなんです。

ただ方法論の違い、文化の違いにより、互いに理解できないだけであって。

例えるならば山のようだと言えます。

登山をするときは頂上という目指す場所があり、登山ルートというそれに至る道がありますね。

頂上はどこから登ってもたどり着く場所ではありますが、ルートは種々様々です。

実際、100年ほど前に存在したラーマクリシュナという聖者がいます。

彼は、ヒンドゥー教でありながら、キリスト教の修行、イスラム教の修行を達成し、すべては方法論は違えど、たどり着く場所は同じだと証明しました。

なので、私は宗教論争など、あまり意味がないように感じますね。

そんな暇があるなら、今自分が信じる道をひたすらに進むことが、為すべきことなのではないかと思います。

kma********さん

編集あり2009/10/1020:27:25

そもそも、大分イッちゃってる一部の人を除いて、マトモな精神の宗教家や思想家は「自分だけが正しい」などと思っちゃいない。
ではなぜ自分の主張こそが正しいと主張するかと言うと、何人かの人たちが答えているように、
『それを言っちゃあ商売にならないから。』
結局、世の中は全て、本音と建て前は別だって事ですよ。

a1a********さん

編集あり2009/10/1321:45:34

「自分こそが」と主張するのは、
レベルの差はあれ、信じようと信じまいと、
普通に皆やっちゃってるのでは?と思いますがどうでしょ。

貴方ご自身が、
主張した、それを伝えた人から聞いて、感銘した訳ですよね?
そして、正しいと思われた意見を表明されている訳ですよね?
(「自分こそ」とご自身思われてるかどうかは不明ですが。)
無駄ですか?
私はぜんぜん無駄ではないと思います。

結論が「無駄」なら、そもそもお書きにならない。のでは?
「無理や矛盾が生じますよね。」

私見ですが、
不完全な人間だから、議論はとても結構だと思います。
議論とか話し合いって、主張側が「批判を受ける」ことを了承している、という事だから。
そうでないと「お話にならない」ですよね。

逆に、ある「主張」の論議を許さなくなったりした世界は、
そっちの方が正しくない世界になると思いませんか?

そういう世界がある気がします。

<補足された事に対して>
仰るとおりです。
「正統」はNGです。「正統」は、根拠ではないから。

他の意見をNGとする思想は、思想として「自己矛盾」だという事です。
どんなに稚拙でも、人の意見を聞くなら、多少でも必ず昇華されていくし、
意見交換が無駄だ(これが決定版、でも、正しいものなどない、でも、)とされる思想は、
その時点で最適でも、状況が変われば全否定か無政府状態になる。という事です。

その思想がOK、NG,かというより、
「思想」というのは、そもそも「不完全」で、常に「議論の対象」であるべきだ。といってます。
でなければ、「多様性」というより「思想はない」。としたほうがいい。
「主張」しない、が、「曲げない」思想は、いきつくところ、
一人1思想で、
これは、人間の「社会」というものを、そもそも否定するからです。
そして人間の「社会」を否定する事は、即ち、人間の生存を否定するので、
人間が考えるところの「思想」事態が成り立ち得ない。という事です。

bun********さん

2009/10/810:35:45

「自分より優れた宗教家がいます」なんて言ったら教祖は商売になりません。

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