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☆★500枚★☆ 歴史についてです。 今度学校でディーベートをするのですが、 そ...

ryu********さん

2009/12/614:39:59

☆★500枚★☆
歴史についてです。
今度学校でディーベートをするのですが、
そのディベート内容は、「聖徳太子は実在したか?」で、
僕は賛成派にしました。

それで、聖徳太子が実在したと言える意見を回答お願いします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

アンノさん

編集あり2009/12/619:28:46

分りました。
貴方を勝たせてあげましょう。
・・・ちょっと待っていて下さいね。
1時間以内に、ディベート用の想定問答を作ってあげます。

はい、完成
※冠位と憲法の件は後発回答者さんが書いてるみたいなんで、削除しました。



プロローグ
「聖徳太子」が摂政になったと言われる593年の段階で、
日本中のどこにも、「聖徳太子」と呼ばれた人はいませんでした。
この時に推古天皇を補佐したのは「厩戸皇子」でした。
「聖徳太子」というのは厩戸皇子に死後与えられた称号です。
だから、その意味では、生きながら「聖徳太子」と呼ばれた人はいません。
もし、今。「聖徳太子」の生きた時代にタイムスリップして、
人々に「聖徳太子さまを知ってますか?」と呼びかけても誰も知りません。

・・・でも。
それを理由に「聖徳太子はいなかった」というのは間違いです。
天皇は全て生きているうちは「○○天皇」とは呼ばれません。
例えば先代の「昭和天皇」は確実に実在していますが生きているうちは、
「今上陛下」とか「おかみ」とか「陛下」とか「天皇陛下」と呼ばれます。
亡くなった後に初めて「昭和天皇」と言う称号が決定されたんです。
「聖徳太子」も生きているうちは「厩戸皇子」と呼ばれていて、
亡くなった後で「聖徳太子」と呼ばれた人物なだけです。

「昭和天皇はいなかった」と言う人が間違っているように、
「聖徳太子はいなかった」と言う人はやはり間違えているのです。


反対派への反撃
1,「聖徳太子」がいたと書いてある本は?
『日本書紀』(720年完成)が中心だが、
『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や、
『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』、『大鏡(おおかがみ)』に登場。
『万葉集(まんようしゅう)』にも登場し、次の和歌を残している。

「家にあらば 妹が手纒かむ 草枕客に臥やせるこの旅人あはれ」(ボードを用意)
意味:家にいれば貴方が用意してくれる枕で眠れるけど、
旅さきだから、貴方の枕が無いと思うと、旅の辛さを感じます
実は太子が亡くなったのは622年。ある病に倒れた太子の看病で、
疲れきった妻の膳(かしわで)が突然倒れ、そのまま亡くなっています。
それを聞いた太子は、妻の死の翌日、息を引きとりました。
太子の看病のため、自分の命を捨てた妻の愛情と、
その死を聞いて後を追うように亡くなる太子の愛とが、
元気だった頃の和歌にも込められているような気がしますね。

2,『日本書紀』とかは全部、死んだ後の本じゃないか?
その通り。でも当時は新聞も無いし、インターネットも無い。
だから、逆に言えば、当時の記録に「太子はいなかった」というものも無い。
最初から存在しない記録が無いからと言うのは、無いものねだりだし、
それを理由に太子が存在し無いと言うのは不公平だろう。

3,『日本書紀』は作られた歴史だ
中部大学教授・大山さんは、
長屋王や藤原不比等が「聖徳太子」という人を作ったと言っています。
大山説では、中国に対抗して「聖なる皇帝」として「聖徳太子」を作ったそうです。
でも、「太子」は聖なる「皇帝(天皇)」じゃなくて、「聖なる皇子」です。
対抗して作り上げるなら、「聖なる天皇」を作らないとおかしいです。
『日本書紀』には候補者がたくさんいます。
仏教伝来時に、仏教を受け入れると決めた欽明天皇(きんめい天皇)に、
仏教を日本の正式な宗教と認めた用明天皇(ようめい天皇)はどうでしょう。
特に用明天皇は、太子の父にあたる人物ですので適任です。
なのに、わざわざ「聖なる皇子」を作って、しかも最後は病気で亡くなっています。
さらに、『日本書紀』では太子の一族は、後に皆殺しにあっています。
これで「聖なる皇帝」に対抗できているとは、ぜんぜん思えませんけど。

4,でも『日本書紀』は信用できない
『日本書紀』を作っていた時代は、太子の時代からそう離れていません。
太子はバリバリ働いていた622年に突然亡くなりました。
『日本書紀』は720年に完成していますが、全部で30巻+系図1巻。
作りはじめは680年頃だろうといわれています。太子が亡くなって60年くらい。
つまりは、お爺さんの若い頃を書いた本って感じです。
親に「爺ちゃん婆ちゃんのこと」を聞いて「何も知らん」訳はないです。

だから、もし、「聖徳太子」を作り出したとしたら、
これについて「誰も本当のこと書くなよ」なんて命令を完全に守らせるのは無理。
例えば・・・「天智天皇は暗殺されたかも知れない」とか書かれた史料が有るのです。
『日本書紀』は不十分だから、ウチの家独自の記録を・・・なんて本も有る。
★『古語拾遺(こごしゅうい)』という本がそれ。斎部広成(いんべのひろなり)の本。

質問した人からのコメント

2009/12/11 23:03:49

降参 負けてしまいましたが、自分はものすごく活躍できたと思います。
ありがとうございます。

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asd********さん

編集あり2009/12/619:50:36

冠位十二階は、百年後の事だとする大ウソをついた者がいたので、
それに対する反論だったのですが、
多分、ディベートでも誰かが使ってくるでしょうから、押さえておいた方がいいと思います。

冠位十二階は、603年に定められた日本最初の冠位です。
百年後の事ですって、
701年には大宝律令ができており、大宝律令の時には、冠位は三十に増えていますよ。

それに、大宝律令の時に急に三十に増えた訳ではありません。
六四七年、六四九年、六六四年、六八五年、六八九年とだんだんと増えていったのです。

これらの事実をどう説明するのですか?

そもそも、大宝律令の時は、位冠の授与が停止され、
位階の授与は、位記の交付によって行われる事になったのです。

わかりやすく言うと、紫の冠や紫の衣服を与える事はなくなり、
紙一枚ですませるようになったのです。
いちいち冠や衣服を与えていたのでは、お金がもったいないですからね。

聖徳太子はいなかった、厩戸皇子はいたですって。
へー、それは、つまりこういう事ですよね。
シャカは、いなかった、シッダルタがいた。
孔子は、いなかった、丘仲尼がいた。
仏教に対する冒涜であり、
儒教に対する冒涜ですよねー。
過去の歴史や文化に対する冒涜だと思うなぁ。

いやいや、現在ただいま、平成天皇と呼びかけるのは、ものすごーく失礼な事ですよ。
もちろん、お亡くなりになった後は、平成天皇と呼ぶのが正しいですけどね。
昭和天皇だって、
大正天皇だって、
明治天皇だって、
生前その名で呼ばれる事はなかったんですよ。

自分の国の文化や歴史ぐらい知っておきましょうよ。
それに、孔子は中国ですし、
シャカは、インドです。
自国の文化を尊重できないものは、他国の文化も平気で踏みにじるという良い例ですね。

太子信仰は、古来からあり、現在も脈々と受け継がれているんですよ。
決して過去のものではないです。

だいたいねー、
藤原氏が光明皇后を神格化するのは、分かりますが・・・。
なーんで、
藤原氏が蘇我系の皇子の聖徳太子を神格化する必要があるんですか?

光明皇后の行いが、藤原氏によって、でっち上げられたものだ、という可能性はあります。
藤原氏には、動機が充分にある。

しかし、聖徳太子を神格化するメリットは藤原氏には全くありません。
藤原氏には、デメリットしかありません。

では、藤原氏が聖徳太子の存在を歴史から抹殺しようとすれば、どうなるか?
反藤原氏勢力はこぞって騒ぐ事でしょう。
藤原氏には、皇室を敬う心がない、とね。

よーするに、
藤原氏には、聖徳太子を正確に記述する必要があった。
神格化してもメリットはないし、
歴史から抹殺しようとすれば、皇室に対する忠誠心を疑われますからね。

もちろん、聖徳太子の死後、百年近い間に、
自然に話に尾ひれがついていった、という可能性はあるし、むしろ、それが真実でしょう。
しかし、政治的なプロパガンダによって太子信仰が起こったという可能性は、絶対にない。

聖徳太子は偉大な皇子だった、
だから民間信仰、すなわち太子信仰が生まれたのです。

藤原氏は、忠誠心を疑われるため、
その頃には既に歴史的事実と成りつつあった太子信仰を、
忠実に記録する必要があったのです。

補足説明
津田左右吉による十七条憲法は大化改新以後に成立した、おそらく700年頃につくられた偽作という説にも反論しておきましょう。

700年頃に書かれたものならば、「国司・国造」と並列する事はないし、
かえって他の律令制上の用語がない。

確かに、天皇が日本全国全てを領土とするのは、大化の改新が起こった645年以後の事です。
しかし、それ以前に、皇室が一ヶ国も支配していなかった、
と、考えるのは、論外もいいところです。
それ以前も皇室は多くの国を支配していた日本最大の勢力であったはずです。
そして、天皇の国には、当然国司を派遣していたはずです。

国司と書かれているから、645年以後の事だと考えるのは、論外です。

役人を「官」と呼んでいる事も、同様です。
役人を「官」と呼ぶ事は、中国ではもっとずっと古くから行われていました。
聖徳太子が役人を「官」と、表現した事について、疑問視するのはおかしいといえます。
むしろ、自然な事でしょう。
実際、日本でもその後、役人を「官」と呼ぶのが正式名称になるのですから。

そもそも十七条憲法は四字の句が全体の句の八割を占め、その文体は韻律のあるものとなっている。それは、後代の作とするにはあまりにも独自の文体です。


豆知識
日本書紀には、「聖徳太子」の記述はない。

七〇六年の「法起寺塔露盤名」に、
「上宮太子聖徳皇」と記録されています。

gog********さん

2009/12/615:28:27

聖徳太子が実在したと言えること
○聖徳太子がいなければ、17条の憲法はないと思います。
○聖徳太子がいなければ、冠位12階もないと思います。

以上の2つは、よくテストに出てくることだし教科書にも必ず載っている事なので、大半の専門家は聖徳太子が実在したと述べている事になります。

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