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保科正之が解決に尽力したと云う、三春事件とは 一体どんな事件だったのですか?

yam********さん

2010/2/1023:29:13

保科正之が解決に尽力したと云う、三春事件とは 一体どんな事件だったのですか?

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aki********さん

2010/2/1620:36:59

三春騒動と保科正之の名裁きについては、

寛永21年4月10日奥州三春三万石の封土没収問題が起こる。
三春藩主松下石見守長綱の正室土佐山内家から、石見守がキリシタンでご乱心との届けがある。
4月14日保科正之、磐城平藩内藤家と三春に向う。
籠城の石見守などがキリシタンでないことを見やぶり、内藤家に兵を半分引かせたことから三春城は明け渡す気になった。
4月21日三春城明け渡しに成功。

江戸で評判の保科正之・名裁きは、

1.キリスタンと誤解されると、皆殺しにしなければならないが、探査方が詳しく調べ、事実無根と断定。

2.致し方なく開戦の場合、返した内藤家三百駒の半分は、戻って先峰を勤めさせる条件で返らせ、意気盛んな功名争いを事前に裁いた。

3.三春城籠城から、軟化、明け渡しが短期に、無血で、スムースに行われた点などで、兄家光も、弟の名裁きに満足されたと思われます。

質問した人からのコメント

2010/2/16 21:30:59

感謝 おお~そんな事件があったんですね!詳しくありがとうございます!

paper_lies800さんも伊達騒動の件、判り易く教えて下さり感謝しています!
勉強になるな~。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

pap********さん

2010/2/1112:06:04

三春事件ではなくて伊達騒動(寛文事件)ではないですか?
仙台藩3代藩主伊達綱宗は放蕩三昧だったため、家臣や親族大名からの願い出によって、幕府から強制的に隠居させられ、2歳の亀千代(後の伊達綱村)が4代藩主となりました。
亀千代の後見役となった大叔父伊達兵部宗勝が家老の原田甲斐と謀って、仙台藩の実権を握ろうと画策し、他の伊達一門と対立します。亀千代毒殺未遂事件や、領地紛争が起こります。一門の伊達安芸宗重が事の顛末を幕府に訴え、裁定を仰ぐことになりました。寛文11年(1671)、幕府大老酒井忠清邸に原田甲斐・伊達安芸等関係者が召喚されましたが、原田甲斐は伊達安芸に斬り掛かって殺害し、原田甲斐も宗勝派の柴田外記と斬り合いになり、死亡しました。この事件で、関係者は処罰されましたが、仙台藩伊達家は守られました。伊達家が守られることとなった裁定の裏に保科正之の尽力があったらしいです。

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