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自分の身を犠牲にして人の幸福を手助けすることが生きがいにつながるはずなのでし...

hag********さん

2010/2/2014:16:22

自分の身を犠牲にして人の幸福を手助けすることが生きがいにつながるはずなのでしょうが…今の私はそんなことをしても心が満たされません。

療養していた時に、沢山の本を読みましたが、たいがいの本が、そういう無償の愛とかアガペーみたいな観念の行為が人間として最も至上すべきもので生きがいにつながると書かれていました。
現実今の私も疲れた心身を粉にして、見返りもとめず、日々お仕事で感謝の気持ちを忘れず、人を喜ばそうと努めているのですが…
毎日毎日、仕事が終わると無性にむなしくなり、人と比較してみじめな立場の現在の人生が嫌になります。
そして好きでそうするわけじゃないけど、不自由なく普通の人生を送れる他人を妬んでしまいます。(私は障害をもってます。)
うつ病のお薬を色々飲んでも、変わりません。
なにか自分のしている事に欠陥があるのでしょうか。
こういうことを思うこと自体が、見返りを求めているんでしょうか。

名著などでさんざん言われてきたこの言葉を信じていたのに、結果が伴わない現実に、絶望してます。

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ベストアンサーに選ばれた回答

sun********さん

編集あり2010/2/2220:42:53

例えば誰かが何かを苦にしているとします。その理由が今のあなたにとって「なんてくだらない悩みなんだろう、この人は私の苦しみに耐えられないだろうな」と思うとします。私はそれが「恵み」だと思います。あなたの持つ「大いなる強さ」という恵みです。
本当に大切なものは目にみえないものです。人間にとって障害という「苦」を乗り越える試練はその器を持った人にしか与えられないと私は思います。私は無償の愛とは決して「しなければならない」ということではなく、あなたが生きていることそのもの、その存在が無償の愛であり、あなたはその恵みを受けていると思います。あなたが比較して、劣等感を抱いてしまう対象者には、あなたの障害には耐えられる程の強さという「恵み」を持っていないかもしれません。
あなたがなぜそんな風に虚しくなるのかですが、身心が疲れる程に努めようとするとき、愛のベクトルは向きが変わります。
自分が持っているだけの愛で、人を愛せるんだと私は思います。だからまず自分を愛するだけでいいと思います。
そうすることで日々の行為から「本当の恵みに気づく」ことが出来、生きがいに繋がるのだと思います。

質問した人からのコメント

2010/2/23 23:11:43

笑う 沢山のすばらしいコメント、本当にありがとうございました。感動しました。生きている事そのものが無償の愛だというコメントに感動したのでBAにさせていただきました。今日職場の男の子が今日いろいろ仕事の手助けを惜しみなくしてくれ、見返りを求めない思いやりに心打たれました。無償の愛のすばらしさを感じました。

ベストアンサー以外の回答

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tao********さん

2010/2/2014:31:55

犠牲は、生き甲斐には、ならないでしょう、どうかんがえても?

犠牲になったら、犠牲になるだけでしょう?

犠牲になってばかりなら、つまらないでしょう、それは。

障害をお持ちなら、ひとに嫌われるのが怖いから、犠牲に逃げ込んできたんでは?

あなたは知性もあるし、文章表現も出来る人。犠牲になるより、才能を世界と分かち合いましょう。

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qwe********さん

2010/2/2015:08:52

おそらく考え方の順序が違うんじゃないかと思います。
犠牲になるのは結果であって、それ自体を目的としては心身が疲弊するのは当然かと思いますよ。仰る通り、犠牲になることが自分の生きがいになるはずだという考え方は、生きがいという見返りを求めているということになるでしょう。それではあまりにせつないですよね。
犠牲を生きがいにするという考え方はおそらくこれだけ自己犠牲しているのだから、きっとそれを埋め合わせるようないいことがあるはずだ、充足感があるはずだという期待だと思います。でも、その期待がことごとく叶わないために結果が伴わないと感じていらっしゃるのではないでしょうか。
ただ、昔からさんざん言われてきたこの言葉は、犠牲を目的達成のための方法論として用いよ、ということではないと思います。最初に述べたように、それはあくまでも結果としての自己犠牲であって、その動機はあくまで自分の幸せを目指すものでいいんだと思いますよ。
自分が充足感を得たい、他人を助けた時に充足感がある、だから自分は他人を助ける、という順番にすると、同じ犠牲行為でも達成感は非常に高いと思います。助けることで充足感が既にあるし、その上、期待してなかった感謝の言葉があった時には逆にこちらが感謝したいほどの喜びを得られると思います。そうなると、行為は同じでも生きがいとしての手ごたえはかなりあるはずです。
幸せになりたいという気持ちは自然な気持ちですから、それを否定する必要はないと思いますよ。無償の愛が自分を満たすのはそれ自体で自己完結するからです。他者に何も期待しないために、失望感にとらわれることがありません。すごく楽な生き方なんです。何かがほしいとか、何かをしてほしいと思うと、対象次第で手に入らなかったり、してもらえなかったりすることがありますから、どうしても失望するリスクが内包されます。でも、自己犠牲は自分の行為だけで完結するために、必ず叶う願いなんですよね。ある意味、これほど自己中心的な欲望もないんです(笑)例え、相手が喜ばなくても自分がしたくてしたのだから、失望しないし、相手が感謝してくれなくても自分勝手にしたことですから、これまた失望しない(笑)自己犠牲とはとことん自己中なものなんです(笑)だから、自己犠牲する時は、見返りを求めちゃいけないとか、人を喜ばさなくちゃいけないという使命感は手放して、自分が楽しいからしよう、と考えてみてください。それでずいぶんと気持ちが楽になってくると思います。しなきゃいけないわけじゃない、したいからするという切り替えですね。だから、したくなきゃしなくていいいんです。ある意味、アガペーほど自己満足な欲求もないってことです(笑)無理せず、自己犠牲を楽しんでいきましょう。
どんな障害があったって、生きている事実には変わりないですし、健常者だろうが、障害者だろうが、それは便宜的な違いに過ぎず、たまたまマジョリティを健常者と呼んで、そちらを基準にして町づくりをしているに過ぎません。障害とは体が障害なのではなく、マジョリティ向けの町が障害になるから注意しないといけないという意味でしかないですよね。マジョリティに合わせて町が作られているのなら、マジョリティが何不自由なく普通に暮らせるのは当たり前なんです。マイノリティは暮らしにくい。当然です。それは単に数の論理に過ぎないということです。例えば、日本人がヨーロッパの片田舎に行くと、まず違う言語を話さなくちゃいけない、握手はしなくちゃいけない、床に直に座っちゃいけない、そりゃあ不便です。そこでは日本人がマイノリティだからですね。障害も同じです。人間ってしょうがないですよね。多数決にどうしても流される。質問者さんに欠陥があるわけじゃなく、社会に欠陥があるんです。マイノリティに対応しきれていないという欠陥ですね。それが社会で人間で、それほど上等にもできてません。ご不便でしょうが、少しだけ大目に見てあげてくださいね。
最近ではユニバーサルデザインの考え方も普及してきて、マイノリティへの配慮もグローバルスタンダードになりつつありますよね。少しずつ人間も変わってきていると思います。もう少しだけ待ってあげてくださいね。きっと質問者さんにもご不便をおかけしない社会になっていくと思います。

has********さん

2010/2/2100:18:36

ご存知かとは思いますが、アガペーとは、キリストの愛のことですよね。
キリストは聖書でこう説きます。
「互いを愛し合いなさい。私があなた方を愛したように」。
キリストは、私達の人間が犯す罪を神様に許してもらうために、
自らの運命を知りながら十字架に掛けられ、死にました。
私自身はカトリックの学校で育ちましたが、先生に、
「キリスト程の自己犠牲は私達にはできないけれど、
本当に小さいことでよいので、身近な人を幸せにするために
働きかけができればいいですね」と言われました。

長くキリスト者をしてきた私からすると、自分を犠牲にし、誰かを幸福にした場合、
相手が私の善行に気づいてくれれば、とても感謝されて「やってよかった」と感じます。
しかし、大抵の場合は相手に気づかれません。それ故感謝されません。
そんな時は、人間なので、「後悔」することが残念ながら、あります。
「なんだ。報われなかった」とか、ひどいケースになれば「許してあげたのに、
それに気づいてくれてない」と、相手への怒りに変わってしまうこともあるのです。
これらは、人間の限界であると推察します。

何が言いたいのかと言いますと、自己犠牲によって幸福を得るという教訓は、
個人的に素晴らしい教訓であるとは思いますが、人間の力量を考えると、
限界があるということは忘れてはいけないです。
つまり、この教訓を守る際に心しておくべきことは、
自分の気持ちに素直になってあげることだと思います。

>毎日毎日、仕事が終わると無性にむなしくなり、人と比較してみじめな立場の現在の人生が嫌になります。

孤独をお感じになって過ごしていらっしゃるとお察しします。
いままで他者のために一生懸命尽くしていらっしゃったことは
誰が考えても賞賛に値します。ご自分を褒めるべきことだし、
私もみんなの代わりにお礼申し上げます。ありがとうございます。

しかし先程申し上げたとおり、我々は神でなく不完全な人間であり、
例の教訓を完全に成し遂げることは、実は不可能です。
それでも「できる」と思うのはある種の「傲慢」と言われています。
これからは、もう少し自分を解放させてあげる必要があると思います。
誠実に教えを守ってきた苦労もまた必ず実りになっている筈ですから
絶対に無駄ではないですが。

今まで我慢してきたものが、一気に爆発する心理状態に陥るのも心配です
「自分の幸福が他者を幸福感に導く」、これも間違っていません。
物事は考えようです。まずはこの考えを念頭に置いて過ごしてみてはいかがでしょう。
ご自身の心を大事にしてあげてください。まもってあげてくださいね。

let********さん

2010/2/2100:19:24

あなたに必要なことは視野を広げることです。

疲れた心身を粉にしても、生きがいを得られない。
それはあなたがそれに適していないからです。
苦しいけど頑張って自分をその型の押し込む他に、
今の自分に合う型を別に探してみるという選択肢もあります。

ミュージシャンは自分自身で音楽を楽しみながらも、
周りの人々をも楽しませることができます。

あなたが得意だと思えるものは何ですか?
何をするのが一番好きですか?

自分の身を犠牲にして人の幸福を手助けすることが生きがいにつながるはずなのでしょうが、今のあなたにとって、いきがいとは何なのでしょうか?

あなたが自分自身を幸せにすることから考えましょう。
本に書かれていることは万人にとって、利くクスリとは限りません。
その人にはその人に合った生き方があります。
まず、自分自身を知りましょう。
そのために、誰か親しい人とおしゃべりするのがよいと思います。

わたしも似たような境遇に陥った時がありましたが、
沖正弘さんの「ヨガの喜び」を読んで、心が軽くなりました。
お役に立てたのなら幸いです。

bgl********さん

2010/2/2100:33:14

私も貴方と同じ障害持ってます。そして貴方と同じ自分を犠牲にして誰かの為に。若い時は見返りありましたが今はないです。自然となりましたよ。自分が犠牲になり誰かが豊な暮らしに妬むのは勘違い。隣の芝生は青く見えるもの。仮に貴方が犠牲して他人がそれで豊になり貴方に感謝がなければそれでもよいのでは?そんな器の大きさも大事かと思われます。解答になってませんがあまり卑屈にならないで下さい。

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