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長篠の合戦で武田勝頼が自軍の数倍もいる信長軍に決戦を挑んだのはなぜですか?

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ID非公開さん

2004/8/211:33:33

長篠の合戦で武田勝頼が自軍の数倍もいる信長軍に決戦を挑んだのはなぜですか?

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ID非公開さん

2004/8/212:42:25

勝頼としては、家中をまとめる必要はありました。
引けば、「だらしないとか、先代に比べて・・・。」と言われます。領民も不安に思うでしょう。家中は、必ずしも団結していたわけではなかったのです。武田の動員戦力は、約4万。この戦いには、1万5千しか参加してません。高坂彈正の1万8千は、上杉対策のため動かせず、甲府の守備隊7千は、万一の備えです。

一般に国の政治の場合、国内がうまく行ってない場合は、海外に目を向けます。外交や軍事でポイントを稼ごうとします。

ここで突入して武威を周辺に知らしめておく必要があったのだと思います。勝頼は、ある意味で信玄より戦闘能力は上でした。武田の最大領地は、勝頼の時代に達成されてます。やや戦いに対する慢心があった・・・。

しかしながら、勝頼は、ちと急ぎすぎた。上杉・北条と同盟関係を結んでから援軍を頼み、4万規模で戦えば、勝算はありえたでしょう。

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ID非公開さん

編集あり2004/8/216:52:03

この時信長・家康の連合軍は低地に陣を張りました。陣は高地に張るのが古今東西の常識であるにも拘らずです。騎馬隊の破壊力は凄まじいものがありますが、それが上から逆落としに突撃するとあってはその威力は何倍にもなるでしょう。つまり信長・家康連合軍は、誘いの隙を作ったわけです。なお武田も一方的にやられたのではなく、武田側の死者1万人に対し、信長・家康側も6千人という大損害を出しています。

これより前に、小勢の家康が城を出て三方が原で信玄に敗れたのも、信玄が低地に宿営のための陣を張る構えを見せ、逆落としに突撃すれば信玄に勝てると家康に思わせることに成功したからだと云われます。この時の信玄は家康の監視に大変な力を入れていたと思われ、城を出る動きを確認した瞬間に低地を駆け上がり、家康が戦場に到着した時には全部隊が揃って臨戦態勢にありました。そのスピードは家康の想像を遥かに上回っていたようです。

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ID非公開さん

2004/8/214:05:53

 色々な説がありますので、又別の説を。
1.自分達の後方にあった長篠城が織田・徳川方に取り返されて退路を立たれたと思った。
2.織田・徳川軍が攻撃を仕掛けてこないので、まだ全軍が揃ってないと誤認した。
3.織田・徳川軍が攻撃を仕掛けてこないので、武田軍を恐れていると思った。
4.自分達の戦闘能力に絶対の自信があった。

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ID非公開さん

2004/8/211:50:50

一説のよると、信玄以来の武将たちが退却を進めたのに、
勝頼は、「武田は戦わずして、逃げた事は無い。」といって
決戦を強行したそうです。
これを聞いた武将達は、自殺同然で織田軍に突っ込んでいった
そうです。
一方、一門衆の多くが無断退却したそうです。

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ID非公開さん

2004/8/211:34:46

戦は数だけで決まるものではない!!と、思い込んだからでは?

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