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NHKでやってたマイケル・サンデルの講義の番組を、録画したやつをずっと何度も見て...

dil********さん

2010/6/2716:29:16

NHKでやってたマイケル・サンデルの講義の番組を、録画したやつをずっと何度も見てるんですけど、疑問点があるので教えて下さい。

コミュニタリ アンの主張
「正義と権利は善という概念と密接に関係している。」


ひっかかるのは「善」(the good)です。

終盤にこの言葉がよく出てきてて、解説の人は「善」と言ってるけど、この善は道徳的な意味の善なのか非道徳的な意味の善なのか、どっちですか?


もしかしたら全く的外れな疑問なのかも知れないけど、俺は、永井均の本から、「「善」には道徳的な意味と道徳的外的な意味と二つある」ということを学んだせいか、どうしてもこの言葉に引っかかってしまいます。


コミュニタリアニズムが「正義を考えるには、人々がもつ善の考えや善き生について考えねばならない」と言った場合の「善」は道徳的?道徳的でない?どっちですか。


(もう一度よく見てみると道徳的な善のようでした。でもまだ疑問が残ります。「善き人生」って言葉も言ってるから。それと、正義を道徳的善から導き出すなら意味がないのでは?それとも正義はそれぞれの社会で相対的と言ってるんですか?)


または、(そういうことに全く詳しくない人でもいいですから)、コミュニタリアニズムのこととは別に、「善」という言葉についてどう思いますか?善についてどう思いますか?

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jh2********さん

編集あり2010/6/2722:49:31

マイケル・サンデル教授の講義番組ですね。
コミュニタリ アンの主張
「正義と権利は善という概念と密接に関係している。」
此処において、コミュニタリアン(間違っているかも知れませんが、ある集団を構成する人)の主張として、これを解釈した場合、仰るように相対的なものと云わざるを得ないでしょう。
そのコミュニティーにおいて、互いの利害の最大公約数を表すものを善と定義するならば、それに沿った概念は正義であり、沿わないものは悪という二元論的思考が派生します。
また、その善の範囲内に於いて自己の欲求を最大化する行為を権利とするならば、上記の定義に矛盾は生じません。
ですが、コミュニティーには前に述べたように共同体特有の価値観や規範があり、それ故、世界的に同一かつ普遍な存在ではあり得ないという現実も存在します。
ですから、各コミュニティー間での善の定義が違ってくるのは避けられません。
道徳とは、コミュニティーを超えた普遍的世界観の基に形成される概念であると定義すれば、非普遍的世界観の基に形成される道徳は道徳的外的な意味を持つと考えられます。
前者が絶対的なものであると定義すれば、後者は相対的なものと定義する事が出来ます。
コミュニティーに、普遍的な道徳や善と共に、非普遍的な道徳や善が混在するとすれば、もはや絶対的=普遍的ではあり得ません。
よって、相対的なものと考えざるを得ないと考えます。
また、『それと、正義を道徳的善から導き出すなら意味がないのでは』との疑問についても、同様ですね。
そのコミュニティーに存在する善の定義から、正義が自動的に導出されるのですから意味は無いでしょう。
但し、此処に日本人コミュニティーの持つ特徴が表れていないでしょうか。
そもそも、日本において哲学や倫理学を専攻する学び舎以外の場所で、このような議論が行われているでしょうか。
行われていませんね。
では、何故行われないのか。
それは、コミュニティーの暗黙知として、善や正義が既に共有され、議論の余地を残していないからではないでしょうか。
一方、米国では多民族国家である以上、異なるコミュニティーから移ってきた個々の人格が混在しますから、其処で新しいコミュニティーを形成せねばならず、おのずと上記の議論が沸き起こってきます。
地政学的に隔絶された閉鎖型コミュニティーである日本と、グローバルな人材が集まる開放型コミュニティーの違いが、あの講義に現れていると思うのです。
これも、コミュニティーが普遍的・絶対的であり得ない証左の一つであり、永井均先生の、「「善」には道徳的な意味と道徳的外的な意味と二つある」という主張にも通ずると思うのですが。
つまり、永井均先生は「『善』には道徳的な意味[コミュニティー内に依存しない絶対対的善から導出される]と、道徳的外的な意味[コミュニティー内に依存する相対的善から導出される]と二つある」と、仰りたかったのではないでしょうか。

浅学非才の輩の考えですので、一笑に付されるのを覚悟で答えさせて戴きました。
論述の稚拙は、それゆえの事ですのでご容赦下さい。

質問した人からのコメント

2010/6/28 10:50:42

勘違いはされてるけど長文の回答ありがとうございます。例えば「よい天気」とかが道徳外的善です。また読んで勉強させてもらいます。

「永井ワールド」とか言ってるあんた、話にならないぞ。「善き生」「選好」なら道徳外的やろが。南部の人種差別的倫理も我々から見たら道徳的悪なだけで意味は道徳的やろが。その程度もわからない人がいるなんて。

もう一人の人、素朴な意見ありがとう。

ベストアンサー以外の回答

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xxx********さん

編集あり2010/6/2810:13:30

永井氏の概念は永井ワールドの中でのみ通用するものであり、それをサンデルらの正義の議論に直ちに持ち込んでもさほど意義がありませんので、サンデルの講義は永井ワールドの知見を忘れて、素直に聴くのがよろしいかと思います。もともと、共同体主義の考え方の基礎には、「徳の倫理」というものがありますが、永井氏の観点は、この徳倫理というものが薄いか、少なくとも昨今の新アリストテレス主義の文脈からはかけ離れていると思います。

まず、サンデルの講義における共同体主義をしっかり理解するには、ロールズの正義論や自由論、功利主義の文脈からみることが大切でしょう。そこにおける善とは、各人が考える善の構想(よき生)=選好(好きでソレを選んでる)です。簡単にいうと、ロールズにおいては各個人がテンでバラバラに、好きかってな善をかかげて生きてるという前提がある。そしてこの発想から「善に対する正の優越」という考え方が導かれる。

これを批判する形で、共同体主義というものがある。善は共同体が規定しているのが実情であり、それが各個人の徳やアイデンティティを形成していのだから、これはロールズの言うような正義などの観念や、功利主義によって踏みにじられるようなものではないという考え方です。

こういった議論は善とは一体何であるかという発想で行われているものではありませんから、「善」の具体的中身は、ほとんど関係がありません。だから道徳的、道徳外的というような区別も、さほど重要ではないでしょう。善という言葉が出てきたら、「よき生」であるとか「選好(好きでソレを選んでいる)」と読み替えても構わない。キリスト教の善とか、イスラム教の善とか、エゴイストの善とか、南部の奴隷制肯定倫理とか、海賊村の掟とか、そういうものを指して善と言ってるのです。それくらいに、ある意味、軽いというか、中身は関係ないものです。厳密に言うと、徳との関係とか、もっと込み入った議論になるわけですが、ひとまず、白熱教室程度の内容を理解するのでしたら、こういう理解で構わないでしょう。

jau********さん

2010/6/2718:15:56

『善』はね、とても神聖で、且つ身近なものに感じています。

絶対的なものじゃなくて、少し歪んだ円みたいに完璧じゃない。芯は透き通っていて見えない。野の花みたいに目立たないけど、ふと見ると足元に咲いてる。

オヤジくさいけど、小さい事をおろそかにしたらアカンって感じる言葉。

毎朝ちゃんとおはようの挨拶する、それが俺にとっての『善』や。


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