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チトーの死後何故ユーゴスラビアは一気に分裂したのでしょうか? チトー時代は大...

bgy********さん

2010/7/1312:32:09

チトーの死後何故ユーゴスラビアは一気に分裂したのでしょうか?
チトー時代は大丈夫だったの?

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coo********さん

2010/7/1422:31:29

チトーは、バラバラだったユーゴの人民に、共産主義社会の建設という、民族主義を乗り越える(させる?)目標を与え、民族間の対立が深まらないようにする枠組みを作った。 当然、消し去れない民族主義の動きに対しては、ユーゴスラビア連邦内の各共和国にある程度の自治権を与えることでガス抜きする一方、反政府活動は秘密警察などを使い、徹底的に弾圧した。チトーの個人的カリスマも強かったため、かつて第1次大戦の発火点となったユーゴスラビアは、第2次大戦後は冷戦時代を通じて、一つの国としてまとまりつづけることができた。

>ユーゴスラビアは一気に分裂したのでしょうか
違います。
チトーが死去(1980年)後も、各共和国から輪番で大統領を出す、という集団指導体制で連邦を維持した。
しかし、1990年にソ連が崩壊し、共産主義という目標が崩れてしまうと、国家解体の危機に陥った。


ユーゴスラビア連邦が崩壊していく中で、政治権力を獲得したのが、セルビア共和国の大統領から新ユーゴスラビア連邦の大統領となったミロシェビッチです。
民族主義傾向が強い彼は、民族意識の復活によってユーゴスラビアがバラバラになってしまうのなら、その前に国家体制をセルビアを中心とする形に変えてしまい、セルビアの武力によって他の民族の離反を防ぎ、ユーゴ連邦を維持しようと考えた。
「イスラム教のオスマントルコが、キリスト教徒のセルビア人をコソボから追い出し、イスラム教徒のアルバニア人を住まわせた。セルビア人には、コソボを取り戻す権利がある」と主張する演説を、1987年、コソボの中心地プリスティナで行った。
この演説が、その後現在に至るまで続いているユーゴスラビア内戦の発火点となった。


ユーゴの民族構成
セルビア人 42%
クロアチア人 24%
スロベニア人 9%
マケドニア人 5%
他にアルバニア人
東方正教会のセルビア人、カトリックのクロアチア人、両者と民族としては同じでもイスラム教を信じているためにムスリム人と呼ばれる人たち、そして、やはりイスラム教徒のアルバニア人、さらに周辺諸国から長い歴史の激動で移り来た人々。実際には各共和国、各都市に混在して住んでいた。ユーゴスラヴィアという単一の政党(共産主義者同盟)が支配する連邦国家は、二つの文字を持ち、三つの宗教が存在し、四つの言語が話され、五つの民族からなる六つの共和国により構成され、七つの隣国と国境を接する。
こうした複雑多岐にわたる民族構成と、ギリシャ正教とイスラム教の宗教対立がユーゴ連邦の崩壊に導いたのです。




ユーゴスラビアにおける民族戦争は、ミロシェビッチ氏が予期したコソボではなく、北方のクロアチア、そしてボスニア・ヘルツェゴビナで相次いで勃発した。いずれも、共和国がユーゴ連邦から離脱して独立宣言した直後、領内のセルビア人が自分たちの居住地域を自治区にすると宣言し、セルビア軍がこれを支援して軍事介入して戦闘が拡大する、という構図をたどった。北方では、ミロシェビッチ氏が予測した通りの展開となった。

質問した人からのコメント

2010/7/14 23:25:39

ありがとうございました

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na_********さん

2010/7/1314:05:26

カリスマ的指導者チトーの死よりも、ベルリンの壁崩壊で勢いに乗るドイツのコール首相とゲンシャー外相が、ユーゴスラビアのスロベニアとクロアチアを扇動し、民族主義を焚きつけ、スロベニアとクロアチアそしてボスニアをドイツの経済圏に組み込もうとしたために、一挙に民族主義が燃え上がり、分裂へと向かいます。
ユーゴ紛争の原因の90%は、ドイツによるものです。

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