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戦後すぐに起きた東宝争議についてお聞きします。

ymaekawa2002さん

2010/8/809:26:00

戦後すぐに起きた東宝争議についてお聞きします。

①この原因はなんだったんでしょうか?
②そのとき東宝の社員監督だった黒澤明と山本薩夫の両監督の態度は何か知られていますか?
③株式会社新東宝(後の新東宝株式会社)はこの東宝争議とどういう関係があるのでしょうか?

Wikipediaを見ても良く分からないので、分かりやすく知りたいのですが----。

補足詳しい回答有難うございました。
③ですがとなると株式会社新東宝は長谷川一夫や入江たか子等のスターが脱退して新しく作った映画会社という理解でいいんですか?又一部大ヒット映画も出したり社名も新東宝株式会社と変更したりしましたが、何故1961年に倒産したのでしょうか?

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o_0_ovo_0_oさん

編集あり2010/8/907:06:22

①最初は、1946年、それまで二つあったものを単一化した東宝従業員労働組合による「会社への第一次要求」(労働組合、団体交渉権、罷免権、会社内での組合活動の自由、経営・企画への組合の参画の承認などを含む18項目)、続けて、給与の増額と臨時給与の支給を求める第二次要求、その後も、最低賃金の設定や、独自の算定方式による給与改訂などを要求していたのですが、経営の実務を熟知していた東宝の重役たちが、おりからの占領軍通達による公職追放に該当する恐れがあるとして役員を退陣したため、交渉がこじれたのが、いわゆる「第一次争議」。

つまり、賃金交渉の決裂がきっかけだったのです。

元々、東宝の前身であったPCLやJOは、自由な気風と左翼への寛容さがあった上に、高学歴のスタッフが多かった事もあり、仲良し身内意識的な雰囲気で作っていた他の映画会社に比べ、組合活動の意識が高かったんですが、これが戦後仇になり、東宝は一時期「アカの東宝」と呼ばれるほどに。

第二次争議の時に、東宝の労組は3つに分裂、組合員の共産党加入が増え、共産党の組合への介入が顕著になってきます。

一部では、共産党員でなければ仕事に就けないなどと言う状況も生まれ、思想よりも生活のために、共産党に入党したような例も多かったとか。

一方、経営陣は、この当時「東宝の作品は真面目だが面白くない」との大衆の意見をあげ、娯楽映画の推進を図ろうとしますが、組合は徹底的に反発します。

1947年、GHQは、東宝に追放令を出し経営陣を刷新、「反共の闘士」と呼ばれた渡辺銕蔵氏を新社長に招くと、映画に対してほとんど知識がなかった渡辺新社長は、1948年、「(映画の)赤字とアカ(共産党員)を排除しろ」と云うスローガンを元に社員の大量馘首を発表、これに労働組合員たちは猛反発、東宝撮影所に立てこもると、GHQが軍隊を送り込んで来る大騒動に…


②黒澤と戦地から帰って来た山本薩夫は、両名とも争議に熱心だった事で知られる監督でしたが、東宝撮影所を製作現場として確保したいと考え、共産党に牛耳られるのを警戒していた黒澤の元に共鳴して結集した助監督や演出助手たちが多かったため、共産党員で組合幹部だった山本薩夫は、監督同士が分裂するのではないかと危惧を持っていて、特に、黒澤を離さないよう注意を払っていたようです。

争議の最中に作られ、封切られた「酔いどれ天使」は全国で大盛況、ロングランになった事から、組合宣伝部オルグが、各地の劇場へ飛び、上映後、東宝問題をアジると、客に紛れ込んでいたサクラがこれに呼応すると云った「落下傘戦術」を展開、黒澤も、演劇化した「酔いどれ天使」を三船と志村喬に演じさせ、その各地での売上を組合に送金するなどもしたそうです。

結局、分裂したのは、右翼系の渡辺邦男監督とその一派だけ。

黒澤は、「東宝の紛争 演出家の立場から」などと言う、組合の立場を代弁する文章を雑誌に発表したりしています。

ただ、黒澤は組合に対し、100%信頼していたかと言うとそうでもなく、「我が青春に悔いなし」の脚本を、新人の脚本と似ているからと、組合員の発言力が大きかったシナリオ審査委員会から指摘され、後半を書き直させられたり、新人試験を受けていた三船敏郎も、組合員の発言で不採用になりかけたりと、組合の「介入のし過ぎ」にはいらだちも覚えていたようです。


「来なかったのは軍艦だけ」と称される軍隊が出動した1948年の第三次東宝争議は、組合幹部だった山本薩夫監督らの自主的退社を条件に、他の職員たちは東宝へ留まる事を許され、終結します。



③第二次東宝争議の際、労組がストライキを決行し、これが長引いたため、かねてより「組合の政治的行動」「独裁政治的制圧的な組合」への嫌悪感を持っていた大河内伝次郎が、1946年11月13日、「御願い」と題する文章を公表してストライキに反対、これに右翼的な考えの持ち主だった渡辺邦男監督は同調、独自に組合批判を始め、さらに、こうした動きに共鳴した(中には、義理や事後承認の人もいたらしいが)長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子などのスターでなる「十人の旗の会」は組合を脱退、新しく作ったのが新東宝です。



(参考文献:浜野保樹編・解説「大系 黒澤明 第1巻」、井上雅雄著「文化と闘争 東宝争議1946-1948」)



新東宝は、映画の製作は出来ても、独自の興行(映画館)を持たない会社だったんです。

旧大映もそうですし、今の製作会社なども同様なのですが、興行を持たない(持っていても少ない)会社と言うのは儲かりません。

質問した人からのコメント

2010/8/15 10:15:46

成功 o_0_ovo_0_oさん、非常に詳しい回答有難うございました。新東宝の経営について答えてくださった、他の回答者の方にも御礼申し上げます。

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hr9r39kさん

2010/8/913:02:35

昭和30年代にテレビが普及した為です。無料で
見れる娯楽に人々の関心が移り、大物スターが不在で
興行館が少ない「新東宝」は たちまち経営が
苦しくなりました。書いてあるように「一部大ヒット」の映画も
ありましたが、主力が「エロ・グロ・ナンセンス映画」でしたので、
(と 言っても今からみれば随分 大人しい内容ですが)
世間のイメージもあまり良くなく、倒産に至ったらしいです。

その後、撮影所は「NMC」としてテレビ映画などを製作、
東宝の資本が入って「国際放映」となり、現在の
「砧レモンスタジオ」として、現在もバラエティー、ドラマなどに
使用されています。

「女優を妾にしたんじゃない 妾が女優になったんだ」は
私の中では ある意味「名言」です。(笑)

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