蓄銭叙位令の問題 和銅4年 はどうして 711年ですか? 和銅かいちん 鋳造は708年な...
2010/8/1322:06:12
ベストアンサーに選ばれた回答
2010/8/1322:54:21
和同開珎を発行したのはいいけれども、一向に流通普及しなかったためです。
和同開珎発行時、労働に対する賃は、五日間=布1丈で、それを布1丈=和同開珎5文(枚)と定めて人一人一日の労賃を和同開珎1文(枚)と規定したわけです。
当時、唐の先進文化の取り入れという大義名分とともに、その実710年の藤原京から平城京への遷都費用はもちろん、平城京という巨大都市の建設費用で朝廷の財政は窮乏し、なおかつこの時点では平城京は未完成の状態であり、この危機的財政から脱却するには政府貨幣(和同開珎)の発行に頼らざるを得なかったわけです。庶民はそういうことも見抜いていますから、貨幣での支払いよりも布での支払いを選び、和同開珎の市場価値が下がる一方で、当然流通もせず朝廷は大量の和同開珎を抱えてしまったわけです。
そこで、反対意見(長屋王ら)を押し切って、貨幣に付加価値を付け、流通量を増やす手段(蓄銭叙位令)が採用されたわけです。この間に3年ほどかかっています。
708年の和同開珎発行の頃は、先進文化を庶民は受け入れてくれる。宣伝が不足しているだけだ。と思っていたわけです。
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