武田信玄vs徳川家康の三方原の戦いで、本多忠勝と山県昌景が戦ったらしいのですが、具体的にどうなったのでしょうか? 本多が押したということは勝ったのですか?本陣を襲ったということは山県が勝ったのですか?

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三方ヶ原の殿軍は、夏目吉信や鈴木久三郎らの家臣です。 殿軍の各方は家康の兜・采配・馬などを奪い、「我こそは家康なり」と叫びつつ武田軍に突撃し、壮絶な討死を遂げました。『信長公記』には「一番手に平手甚左衛門や成瀬藤蔵らと旧織田家臣が武田に攻めかかり、比類なき討死なり。この者らと親しかった四人の若者は武田軍に突入して斬り回り、枕を並べて討死した。徳川家康は後方の敵を馬上から弓にて射倒して、その場を抜け駆けた(要約)」と記されており、戦った者の中に「本多忠勝」の名は出てきません。家康と共に撤退しただけでしょう。 そして『信長公記』には「3百人ほどがつぶてを投げてきた」とも記されていますので、戦端を切ったのは赤備えの「山県昌景」ではなく、投石部隊の「小山田信茂」だと思われます。

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