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徳川家康は、なんで豊臣政権を倒したのですか?

pur********さん

2010/11/1813:12:06

徳川家康は、なんで豊臣政権を倒したのですか?

あと
足利尊氏は、なんで後醍醐天皇政権を倒したのですか?
源頼朝も、なんで平家政権を倒したのですか?

日本の東国出身の武士はすぐに西国でできる政権を
滅ぼして「幕府」を建てます。
なんでですか?都合悪いのですか?

あと、西国政権とか「平家、後醍醐天皇、豊臣」とか
すぐに公家家し軟弱になるような気がしますが
どうしてですか?

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yai********さん

2010/11/1816:56:46

>徳川家康は、なんで豊臣政権を倒したのですか?

武家の最高機関である「征夷大将軍」である
自分に従う形をとらなかったためです。
秀吉の頃とは違い、当時は「家康」の方が位が
上であり既に「政権」を「徳川家」にありました。
そのため「豊臣家」を家臣として扱おうとしたのですが
「豊臣家」が承服せず、戦争となり倒しました。

またそれまでの土壌として「朝鮮出兵」に失敗し
「大名」などに「恩賞」を与えられなかったため
不満が増大し「関ヶ原」などで「領地」の再分配が行なわれ
その旗頭になってくれた「家康」に信望があつまりました。

>足利尊氏は、なんで後醍醐天皇政権を倒したのですか?

当時「後醍醐天皇」は「足利尊氏」を敵とし
討伐を考えました。
それに対し「足利尊氏」は「光明天皇」を祀り
「北朝」をおこし戦い、勝ちました。

「光明天皇」は皇位継承者として元々「後醍醐天皇」と争っており
尊氏はその争いに乗った形です。

また土壌として「後醍醐天皇」の行なった「健武の新政」において
多くの「武家」に「恩賞」が与えられず不満が溜まっていたため
「源氏長者」であり「後醍醐天皇」と戦い「領地の再分配」を約束した
「尊氏」に信望があつまりました。

>源頼朝も、なんで平家政権を倒したのですか?

当時「平家政権」によって「源氏」を始め、多くの「武士」が
「領地」を貰えず、「平家」に集中していました。
そのため「武士」は「平家」と戦い「領地」を分捕る旗頭を欲し
「源氏の御曹司」である「頼朝」をまつり戦いました。
そして「頼朝」は「地頭、守護」を設け全国に「武士」を配置し
「ご恩と奉公制度」によって「武士」に「領地」を与え
「武士」を「公家」との対比から「武家」と呼ぶなど
「武家のための政治」をはじめたのです。

>なんでですか?都合悪いのですか?

上記から「武家」にとっては「恩賞、領地」が問題で不満をため
それを「戦」で解決しています。

しかるに「西国政権」は全てが、それを満たせずに
滅ぼされるようです。

>公家家し軟弱になるような気がしますが
>どうしてですか?

「後醍醐天皇」にいたっては「公家」どころか「皇族」であられます。
また「平家、後醍醐天皇、豊臣家」にも多数の強い「武家」は
集いますが、多勢に無勢で勝てないのです。

「公家化」して居ることなどが問題では無く
「西国政権」が樹立される前に「封建社会」の末期が来ており
それを「経済改革」によって打破し「恩賞問題」が後回しに
なるために「武家」の不満が溜まり滅ぼされるという
ある種の日本の構造なのです。

1、長い「戦乱」の中「平清盛」が現れ「海外貿易」に力を入れる。

2、「源頼朝」が台頭し「平家」を倒し「鎌倉幕府」樹立。

3、「鎌倉幕府 北条執権16代」で「後醍醐天皇」が現れ
「商業、貿易」主体の政権ができる。

4、「足利尊氏」が台頭し「南朝」を倒し「室町幕府」樹立。

5、「室町幕府 征夷大将軍16代」で「豊臣秀吉」が現れ
「商業、貿易、海外戦争」主体の政権ができる。

6、「徳川家康」が台頭し「豊臣家」を倒し「江戸幕府」樹立。

7、「江戸幕府 征夷大将軍15代」で「明治天皇」が現れ
「日本における封建社会」終了へ。

このように、「封建社会」ではどうしても「領地」にしばられ
「末期症状」が出てきますので、その際の「幕府」は倒され
まずは「商業、貿易」特需をおこし、
次に「恩賞」を取り合う「大戦」があり再度「幕府」が立てられ
しばらく「平和」を謳歌しますが、だいたい15~16と同じサイクルで
再度「封建社会の末期症状」が出てきて倒されます。

「封建社会の末期」とは「徳政令」「一揆、悪党の頻発」などです。

この同じことを封建社会の日本では3回やったのです。

質問した人からのコメント

2010/11/25 17:13:33

笑う どうもーいっこいっこ丁寧に答えてくれてありがたいです。
16回周期とか凄いですね。

thathage 文章がつまんねーしわかりずれー。

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bir********さん

2010/11/1823:44:17

中公新書「徳川家康」北島正元さん著、抜粋。
西暦1605年、徳川秀忠が将軍になったとき、
幕府は、豊臣秀頼に上洛を要請も、豊臣側、拒絶。
西暦1611年、幕府、再度、秀頼に上洛要請、
このときも淀殿が強硬な態度で、家康が秀頼に
会いたければ大坂へ来るべきといったという。
加藤清正、浅野幸長の説得で淀は思いなおし
秀頼は上洛、家康は秀頼と会った。
家康は秀頼に会ったあと風評いろいろあるが秀頼殿は
賢明な人物といい上機嫌だったという。
同年、加藤清正、急病死、1613年には浅野幸長も
急病死。ほかにも豊臣に味方する武将が何人か死に、
淀も不安になったなか苦しいときの神頼みか寺社神社に
豊臣は寄進を多くするようになり
有名な徳川幕府の豊臣への言いがかり「方行寺鐘銘事件」
おこり徳川と豊臣の断交、東西軍が戦備をして開戦に至った。
つまりは、上洛を拒否して2度目は折れて上洛した
豊臣秀頼に家康は会ってみると
孫娘のムコでもあり風評ほど悪くは無いと秀頼を見直した
家康だったが、豊臣がたの武将たちが大勢、死に、
この好機を逃すと、手こずると思いなおしたところか。

tha********さん

2010/11/1817:59:44

秀吉が死んで、その豊臣が内部分裂の可能性が大だったので、その内部の亀裂に乗じれば、自分が天下人になれると考えたからです。

足利尊氏の頃は、まだまだ公家もいっぱしの武力を持っていたのです、そして武士がいます。
武士は、朝廷やこのような公家を警護する、自衛隊と言うかなんと言うか、そのような集団だったのです。
そして天皇は、武士があまり武力を背景にして、ぶいぶい言わすのを嫌ったのですよ、源頼朝がいい例ですよね。
征夷大将軍も本当は公家に任命したいのに、頼朝に任命しなければいけないような武力をもたれてしまいましたからね、尊氏も要するに同じです。
がたがた言う天皇を下ろして、自分を征夷大将軍に任命してくれる天皇を担いだのです、これに怒った後醍醐天皇が京を離れ、自分を支えてくれる公家や武士に守られながら、独自の朝廷を造ったのです。

頼朝の頃は尊氏よりも更に前の時代ですから、武士は完全に公家の僕の警備員ですね、朝廷の中にもこの武士の棟梁になろうと源氏を名乗ったものが出てくるのですが、一方平氏を名乗る武士集団も現れるのですよ。
源氏一門対平家一門の武士としての主導権争いですね、平清盛によってこの平家一門が隆盛を極め、源氏一門は戦に負けたりして衰退したのです。
だから、父を殺された頼朝は、固く打倒平家を誓ったのです。

東国武士は坂東武者と言われて、一段下のいなっかぺと言われておりました。
富士川より東は、前人未到のジャングルのような感覚だったのですよ当時の人は。
でも、源頼朝と徳川家康だけでしょ、東で幕府開いたの、坂東武者の足利尊氏は京で幕府開いていますからね。

武士が公家風になるのはどうしてかですが、まずしいまずしい乞食同然の子供時代をすごした人が、立身出世を遂げ、今や押しも押されぬ大企業の社長になったら次に何を望むと思います。
そうです名誉を欲しがるのです、当時も今も人心の筆頭は天皇陛下ですよね、その次がそれを支える公家なのですよ、武士が公家風になるのはこのような背景があるんですよ。ほっほっほっほっほ、お分かりでごじゃるか。

わっかさん

2010/11/1813:38:47

理由は、ばらばらでしょうね。
徳川家康が豊臣秀吉のあとを継いだのは、秀吉亡き後の後継者として、当時の戦国大名の大半が家康を支持したからです。だからこそ、戦国の再現も無く、ただ一度の戦いで家康が天下人になったのです。豊臣政権は潰されたのではなく、秀吉の死とともに、消滅したと考えるべきでしょう。
足利尊氏がいわゆる建武の中興を潰したのは、実力的に全国を支配していた武家たちの要望を満たす政権を作るためです。後醍醐天皇は、皇族と貴族で運営し、彼等の利益を尊重する政権を作ろうとしていたのでね。
源頼朝が平家を滅ぼしたのも、ほぼ同じような理由です。地方を実力で支配し始めていた武家の利益を守ることが、頼朝の公約だったわけで、平家は貴族化することで、そのような地下の武家たちの輿望を荷うことができなかったためです。
幕府は三つ作られましたが、鎌倉が一つ、京が一つ、江戸が一つ。足利市が上野の国の出身であることを考えると、東国出身者が必ずしも東に幕府を作っているわけではないと言うことなのです。
鎌倉幕府については、武家の支配が一般的であった東国にまず政権が作られ(実際の支配権は、当初東国に限られていたのです)、承久の変の後に、全国を支配化に納めたためでしょう。
江戸幕府も含め、朝廷と地理的に離れることで、そのシステムとは異なった支配システムを独立的に運用しやすいと言う面があったのは、京から離れたがった理由でしょうね。そうでなければ、いちいち天皇に時候の挨拶に出向かねばならなくなる・・・。
西国政権が軟弱になりがちなのは、先に書いたとおり、朝廷の序列や価値観に絡め取られ、武家独自のシステムを失いやすいためではないかと思いますが、いかがでしょうか?

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