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青森県の津軽と南部は、なぜ仲が悪いのですか?

gou********さん

2011/1/1700:13:30

青森県の津軽と南部は、なぜ仲が悪いのですか?

補足なぜ、そんなに仲が悪いのに一緒の県にしてしまったのでしょう?廃藩置県をやり直したほうが良くないですか?

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bag********さん

2011/1/1710:11:13

歴史的経緯はsurtnecogypさんので正解です。

廃藩置県の際は、各藩単位で県が擁立されていました。
現青森県域では、弘前・黒石・七戸・八戸・斗南です。
ここで複雑なんですが
1.会津から移封された斗南が農耕不毛の地で、とても貧乏だった。
2.八戸と七戸は本来南部(盛岡)藩と一緒になるはずなんですが、八戸は南部藩祖の出身地ということもあって、南部への合併に消極的だった。南部藩もそんなに豊かじゃなかったし。
3七戸・八戸ともに米があまり採れない地域で、どっちかというと貧乏だった。(山が不作の年、イノシシが里に下りてきて田畑を荒らしたために飢饉になったりしている(イノシシが何万頭もいたはずもなく、ドンだけ耕作物が少なかったかということ))
4.逆に弘前・黒石は米どころで豊かだった。
5.斗南はそもそも南部系の地域だったため、斗南救済は南部藩系がするのが筋だったが、八戸、七戸、南部にそんな余力はなかった。
6.結局、斗南救済を軸に、弘前・黒石・七戸・八戸・斗南に北海道の館(県)も含めて青森県とし、県単位での行政会計が貧乏にならないようにした。でないと、弘前黒石は裕福で八戸七戸は貧乏、斗南は財政破綻になる見通しだった。
7.その後交通の関係で整理され、北海道の館や現岩手県の二戸郡が抜けるなどし、現在の形になる。
大雑把にくくると、こんな感じ。
年を追って書くと書ききれないほど細かい動きがありました。
歴史的な愛憎はあったけど、当時の廃藩置県ってのはそんなものにかまっちゃいられない、一大行政改革であり、かつ関係者も、意外とドライに地域流通や県単位での経済調整考慮して統廃合している。
この辺は「お殿様の領地」から「国家が住民を管理する行政単位」にドラスティックに変えなきゃという部分が感じられます。

質問した人からのコメント

2011/1/17 11:06:35

降参 いろいろとあったんですねぇ。勉強になりました、ありがとうございました。

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ope********さん

2011/1/1705:00:01

元々、津軽藩と南部藩で別々の領地でしたので、言葉も違ければ風習も違います。
仲が悪いという訳ではなく、お互いにまったくよその土地という感覚です。
いまでも新聞も津軽は東奥日報、南部はデーリー東北と違いますし、南部はどちらかというと岩手に近いです。

あと下北もまた別ですね。松山ケンイチとか下北なので、南部や津軽の事を聞いてもわからないんじゃないかと思います。

sur********さん

編集あり2011/1/1706:03:13

もともと大浦(津軽)氏は南部氏の一門だったのですが、
謀叛を起こして南部領から土地を奪いました。(1571年~)
その後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に南部に先立って
参陣し、津軽領が豊臣公認のものとなったため、南部氏は
土地を取り返すことができなくなってしまいました。(1590年)
さらに関ヶ原の戦いで徳川をも味方につけたため、
領地奪還はよりいっそう難しいものになりました。

これは南部氏からすれば
「家来が土地を奪った上に自分と同じ大名になった」
ということですから非常に面白くないわけです。


もう一つ、こちらはやや新しい時代の話です。
戊辰戦争時、弘前藩は奥羽越列藩同盟の一員でしたが、
新政府の攻撃によって同盟が事実上崩壊した直後に突然
弘前藩が裏切り、盛岡・八戸藩を攻撃しました。(1868年)
盛岡藩側は既に降伏していたのにも関わらず、です。
戦闘の結果は弘前藩の大敗でしたが、この一件により
南部側において“津軽は裏切り者”というイメージが強まる
こととなりました。


客観的に見るとどう考えても津軽が悪いので、
津軽人である私としては非常に複雑な心境です。


[追記]
恐らく政府の方で地方情勢があまり把握できていなかった
のだと思います。
初期には弘前・黒石・七戸・八戸・斗南の5県に分かれて
いましたし、明治初期でゴタゴタしていたのもあり、流れで
くっついてしまったのでしょう。(詳しくは知りませんが…)

廃藩置県のやり直しはしない方が宜しいかと思います。
対立感情も今となっては大分薄れてきていますし、とくに
若年層ではほとんどネタ扱いですからね…。
今更やり直しても要らぬ混乱を招くだけだと思います。

mar********さん

2011/1/1702:58:31

戦国時代に津軽地方を治めていた津軽為信という武将は
元々は南部地方を治める南部氏の一族でしたが
あるときに実力でもって独立し、南部氏と争いました。

南部氏は時の天下人の豊臣秀吉にも
この件を訴え出ますが、時流を読むことに長けた津軽為信は
それよりも前に秀吉にご機嫌伺いをして
自分の領地を認めてもらう本領安堵の約束をもらっていました。

秀吉死後も家康と誼を通じ弘前藩として後世まで存続したのです。

このため、弘前を中心とした津軽地方では地元出身の偉人、
南部氏が治めた南部地方では南部宗家に謀反した人物として
見方が分かれており、このことが現在でもそういう風潮として
残っているのだと思われます。

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