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江戸時代についての質問です。「裏柳生」や「柳生の草」は実在したのでしょうか? ...

mid********さん

2011/2/709:55:51

江戸時代についての質問です。「裏柳生」や「柳生の草」は実在したのでしょうか? もしフィクションであるならば、誰の考案・創作でしょうか? よろしくお願いします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

yai********さん

2011/2/711:40:49

フィクションで「子連れ狼」の原作者小池一夫さんが考案しています。

質問した人からのコメント

2011/2/11 14:39:00

ありがとうございました。機会があればまたよろしくお願いします。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

bir********さん

2011/2/720:06:10

柳生家は、大和の「柳生の庄」の領主一族だった
時代は、興福寺と交流するほどの武術達者な
武家だったそうです。
(興福寺は槍術で当世屈指のメッカと称されていた)
そこへ関東から流れてきた上泉信綱と「新陰流」門下
一行が柳生を来訪。
柳生は関東屈指の流派「新陰流」がドレほどのものか
知りたく「仕合」を所望、新陰流の疋田は
柳生の代表選手に ことごとく仕合で勝ち、
柳生家の当時の当主・宗厳(石舟斎)は感服して
上泉の門下となり新陰流を伝授されたといいます。
つまり柳生新陰流は、上泉信綱の新陰流の分派。
石舟斎は合戦の怪我で武術師範が出来なくなって
末の息子の宗矩に師範を後継。
豊臣の世では柳生は太閤検地の隠し田園が
大和大名・豊臣秀長により摘発されて
柳生家は改易となった。
柳生家の復興は、秀吉が死んで乱世再発の
情勢下、上泉信綱の奥義「無刀取り」という
秘技(丸腰で武装した相手を倒す技)を
伝授した柳生石舟斎が放浪して困っていると
聴いた武術に凝っていた徳川家康が柳生を
召しだして「無刀取り」を披露させ、これに
感銘を受けた家康は柳生を旗本に召抱え
関が原の合戦では柳生は東軍に馳せて
この経緯で柳生家は徳川の家臣として
復興した。
一度、改易となっているので柳生は、
大名武将のような大きな戦力は整えられない、
大所帯の武家では、なかったが
新陰流を伝授して武術に長じた武家として
生きのびる指向に転換して徳川の世を
生きのびたという。
家康は、後継者の徳川秀忠に柳生を付けた
という、大坂城攻防戦では柳生但馬守(宗矩)は
秀忠の身辺警護の長をした、大坂方が反撃して
秀忠の陣が強襲されたとき柳生但馬守は
秀忠を守るため戦い但馬守じしん7人ほどの
敵兵を自分の手で討ったという。
このように、大戦力を有して合戦を戦うような
大所帯の武家ではなく領土も禄高も少ないため
柳生家は、別の方面で栄えようとしたようだ。
但馬守の同僚の坂崎が幕府から改易を言われ
坂崎は部下たちと居城で籠城した。
但馬守は単身、坂崎の籠城する居城を来訪して
開城交渉を して坂崎の切腹と無血開城の
引き換えに坂崎の 家は改易回避の約を取り付け
無血開城し坂崎は切腹。
だが幕府は改易を断行。
世間の評価は、柳生但馬守は友人を騙して
城を抜いたと、いう者もいた、但馬守じしん これを
負い目に思い、坂崎の遺族の保護や
坂崎家の家紋を取り入れた複合の家紋を
柳生の家紋として改めたという。
柳生家の一番の武術達者は、
諸国を武者修行、他流仕合を多くして腕を上げていった
但馬守の甥・柳生兵庫ではないかという説を聴きます。

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