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tokotukeさんの仰られている 「柳橋近辺」ですが、現在の清川1丁目の 1~5番地、2丁目の1~7番地、3丁目の 1~5番地付近ですね。 当時は1~3丁目の全域が住吉村の「新柳町」 と言われていたようです。 江戸期から博多の花街は那珂川河口部の須崎浜付近に 散在しており、慶長年間、それらを竪町浜東部に集約し、 京都万里小路の柳町に倣い、「柳町」と称しました。 現在の石城町、大博町、下呉服町の一部です。 近松の浄瑠璃『博多小女郎波枕』のモデルとなった小女郎は 博多一の遊女として名を馳せ、この小女郎と明月、染衣の三人は “柳町三娼伝”として有名となりました。 町内には小女郎の墓もあります。 また、中呉服町の選擇寺は柳町の旦那寺であり、亡くなった 遊女たちの投げ込み寺となっていました。 江戸時代末期、19歳で亡くなった信心篤く母親想いの名妓・ 雪友の命日である6月27日は毎年「紫陽花忌」として供養祭 が営まれています。 また、寺には江戸時代から明治初期にかけて亡くなった580人の 遊女の無縁仏が手厚くまつられています。 「柳町」の遊郭は明治42年に医科大学(現・九州大学 医学部)の設置が決定し、住吉村の「新柳町」に移転。 医科大学は44年に新設されています。 旧地の柳町は「新柳町」に対して「旧柳町」と改称され、 跡地は大浜小学校が建設されました。 「柳町」には、元禄期60~70人、宝暦期は83人の遊女が 居たと『筑前国続風土記』や『石城志』に記されています。 ここには、明治24年に3階建の潮湯浴場「晴心館」が完成し 潮湯の大流行を齎し、大変繁盛しました。しかし明治28年の 火災により16戸が消失しています。町はその災難をバネに 復興を成し遂げ、更に遊郭として著しく発展。全国屈指の遊郭 となりました。 小学校建設後、昭和20年の博多大空襲は免れていますが、 「新柳町」のほうの新しい遊郭はこの大空襲で町の半分が消失、 翌21年に特殊飲食街(俗に「赤線」)として再興、発展して いきました。 一時期は大全盛を極めた「新柳町」も、昭和33年の売春禁止法 施行により特殊飲食街は廃止されました。 現在でも、料亭「三光園」などの建築様式に往時の全盛の面影が 垣間見えます。
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質問者からのお礼コメント
勉強になりました。 その清川地区、仕事で時々通るのですが古い飲み屋が随所に有り、当時をしのばせる雰囲気は少し残っています。
お礼日時:2011/7/24 5:02