三国志って結局誰が勝ったのでしょうか? wikiで調べたのですが蜀が滅んだ辺りからごちゃごちゃしていて良く分かりません 詳しく教えて頂けると助かります
三国志って結局誰が勝ったのでしょうか? wikiで調べたのですが蜀が滅んだ辺りからごちゃごちゃしていて良く分かりません 詳しく教えて頂けると助かります
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蜀が滅んだ(劉禅の降伏)からのお話をしますね。 蜀が降伏した後、劉禅を降伏させた魏の将鄧艾は旧蜀漢領土にて主導権を握りますが、それを良しとしなかった魏の将鍾会によって投獄されてしまいます。 独立の野望を持っていた鍾会は、蜀の降将姜維と魏に対し反逆を起こしますが、この反乱は鍾会の部下であった胡烈の裏切り(実際には鍾会の裏切りに対して胡烈が賛同しなかっただけですが)により、反乱を起こした両将共に自らの部下に撲殺されてしまいます。 この期に乗じて、呉の将歩協・陸抗(陸孫の子、呉の最後の名将と謳われた人物)らが蜀の永安城を攻めますが、魏の将胡烈・羅憲はこれを守り抜きます。 その後、歴史の舞台は魏に移ります。 西暦265年、魏では大将軍司馬昭が晋王に命ぜられ、その後に逝去。その跡は、その子司馬炎が継ぎます。 同年、司馬炎は、魏の第5代皇帝曹奐より帝位を禅譲され、国号を「魏」より「晋」と改めます。 皇帝となった司馬炎は、国力を安定させる為に、まず時間稼ぎを行い、その間に膨大な水軍を作り上げます。 (この間に、両国の間で行われていた晋の名将羊祜と呉の名将陸抗の敵味方をなくした友情の話が有名です。) 西暦279年、司馬炎は、王濬と杜預に6方向より呉を攻めるように命令し、晋による呉討伐が始まります。 この当初の呉の国ではこんな事が起こっていました。 大帝孫権の死後、跡を継いだ孫登は聡明な人物でしたが、即位後にすぐに病死。 それからの呉では二宮事件(この事件により呉の名将陸孫は憤死したと言われています)を代表とする激しい権力闘争が行われ、特に当時の呉の第4代皇帝孫皓は暴君であった為、国力はガタガタになってしまいました。 名将陸抗もすでに亡く、その為、各地での防衛戦は連戦連敗。 これまで呉を守ってきた将達も各地で次々と戦死し、司馬炎が呉討伐を命じてからたった一年で呉は降伏してしまいます。 これにより、三国時代は幕を閉じるわけですが、この晋の国も司馬炎の後継者司馬衷が暗愚であった為八王の乱・永嘉の乱を引き起こしてしまい、晋王朝はわずか2代にして滅ぼされてしまい、それが五胡十六国時代(それぞれの国が独立した戦国時代の様な時代)の始まりとなります。 三国志の勝者は誰か?というご質問ですが、3つの国を立ち上げたそれぞれの皇帝が目指すものが中国統一であったのであれば、そこに勝者はいなかったということになります。 三国志の舞台となる三国時代は、700年もの間、中国を統一してきた漢王朝の終焉とそれに代わる新たなる時代の幕開けとなった時代です。 つまり、三国志は一つの時代の終わりではなく、一つの時代の始まりであったのだと私は解釈しています。 乱文失礼いたしました。
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