軍神『上杉謙信』は童貞なのですか???

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さんありがとうございます。 真実はわからないのですね!(^^

お礼日時:2011/10/19 1:47

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毘沙門天を崇め、自らを毘沙門天の転生と信じていた。それにより仏門に入ったのですが、生まれてからずっとそういう訳ではなく、若き頃はやんちゃをしたそうな。

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武家の当主というものは、世継ぎ問題が、常について まわる。 こういう手合い、は、精力旺盛な奴は妻が大勢いて 繁殖力が、あるので子孫も、ばんばん、増えた。 それは、すべて、よいかというと違うのだ。 たとえば三河の松平家。 これの先祖は流れ者の得体の知れない輩で、 三河に流れてきたときは土着の酒井氏のほうが よっぽど格上だった、それが如才なく勢力と精力を 発揮して家康の祖父のころには、三河には 松平家は、14ほどもあり、家康の実家は、 その松平14支の1つに過ぎなかった、 14松平の宗家の地位を築いたことで 徳川家康は、はじめて三河を統一できた。 家康が台頭するまえは統一性に14松平は欠いて 三河の統一を めぐり抗争を続け 家康の祖父や父が殺されたのも、そういう抗争からで、 世継ぎ争い、というのは日本の中世の戦乱の 大きな要因だった。 それは越後のほうも、そうで、上杉謙信、本名 長尾景虎は嫡男じゃなかったので禅宗の僧に なることを託され寺へ行っていたが 嫡男を不満に思う家臣団が反乱して 景虎を長尾家当主にした。 そういう変節があったので越後は、反乱が多かった。 もともと長尾は、関東管領・上杉の傘下で 越後の守護じゃなかったが武力で簒奪した経緯あって ゴタゴタが昔から続いていて 景虎も領主として、そういう紛争体質だった越後に 苦慮の統治を した。 領主が伴侶を 得る場合、家臣の娘というパターンが 多いが、領主の嫁を出した武家は増長する、という 弊害は多く例に枚挙に困らない、 美濃を簒奪した斉藤道三は自分の愛人を 主君の土岐殿に献上して、のしあがりのネタにしたというし 毛利の支流・吉川氏は、もともとは毛利と格が同等だったが 吉川興経が、家臣の娘を愛人にして正室を追い出して 愛人を正室に変え愛人の子を嫡男にするといい、 この世継ぎ争いに乗じて毛利は吉川に介入して 吉川興経は謀殺されて毛利元就の息子・元春が 吉川家の養子となった。 上杉謙信は、よそでいろいろ家臣の娘を 嫁にもらったら ゴタゴタが発生するのを それなら、いっそ、 そういう難儀は、手を出さないほうがよかろうと 思ったんではなかろうか。もともと高僧を目指した人物で 武将になったのも不本意ながら、やっていたわけで。

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ははは、女は知らずとも男は知ってるから。 童貞と言えるかどうか....... ナニを為す、それはね坊主と同じ戒律を守って戦勝祈願。 ま、謙信って名前も入道の名前だしね。 この頃、合戦に祈祷師や坊主を伴って戦勝祈祷や占いなど軍師の 様なこともさせてました。 坊主って言っても、妻帯をしないってだけで、後の殺生戒や飲酒な んかはやり放題! とんだ生臭坊主でかなわんてや~。 という事でお分かり頂けたでしょうか?