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巌流島があえて武蔵・小次郎の試合(決闘)の地に選ばれた理由は何であるかお聞か...

ant********さん

2011/11/801:11:11

巌流島があえて武蔵・小次郎の試合(決闘)の地に選ばれた理由は何であるかお聞かせ下さい。

指南役の座を奪い合うなら小倉城下で済む話。また勝利したのに指南役になった形跡はない。さりとて(テレビの眉唾ネタにあるような)ヤクザの出入りよろしく弟子達を隠すのに好都合だったなんてのもどうか。そんな策で細川家指南役を殺してタダで済むのか。誰がそれを見て伝えたのか。その後伊織が家老までになり武蔵自身も丁重に扱われたようだがそれはどうして?

巌流島が選ばれた理由を探せば決闘の理由もわかるような気がします。でも決闘そのものに関してもご意見お待ちしています。
文豪や研究者が資料を掘り返していまだ殆どその全容どころか断片も危うい状況。ですからもちろん想像・推量・妄想構いませんが、少なくとも理由付けをお願いします。
たとえば試合後小次郎は息があったが武蔵の弟子達がとどめをさした、というなら試合に勝って名誉を得たのになぜその名誉を失う危険性も省みずとどめをささなければならなかったのか、というところまでお聞かせ下さい。

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k1_********さん

編集あり2011/11/917:20:31

あえて個人的な推測ながら、過って名門吉岡道場と抗争する羽目になった経験を持つ武蔵。武蔵は吉岡清十郎を試合で打ち破ったが、その後逆恨みをかい復讐に燃える吉岡道場一門(総勢73名)との有名な「一乗寺の決闘」を体験した武蔵。あのような一対七十三名の構図になったら堪らないと考察したのではあるまいか、佐々木小次郎は小倉藩の剣術師範、であるならば弟子も多く抱えており、一乗寺の再現もないとも言えず、用心深く計算高い武蔵は船島(後、佐々木小次郎の名にちなんで巌流島)を選んだのでは?!(小倉藩の正規の立会いの下で)小さな島なら大人数収容は無理、しかも武蔵は舟で素早く小島を離れられる事を考慮して・・決闘の経緯は、武蔵、小次郎のそれぞれの弟子たちの、論争(どちらが強いか)の果ての行きがかり上実現された説もあります。また決闘の後のことも諸説あってwikipでもその辺りを延べていますね。

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