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深淵の怪物を見つめる行為の意味について。

ナカナカチュウヤさん

2011/11/2107:57:23

深淵の怪物を見つめる行為の意味について。

ナカナカチュウヤです。KAMIYAさんの、前のIDの回答を読み漁っていて、疑問に思ったことを質問します。

KAMIYAさんは、価値観は外に持て、自分なんか気にするな、なぜなら、そこには動物的な怪物がいるだけだから、とおっしゃっています。
価値観は外に持て、というのはわかります。しかし、自分の中の怪物を気にしない姿勢を勧める態度に、少し疑問を持ちました。
なぜなら、敢えて自分の中の怪物をに覗き込み、狩ろうと努力した偉大な人間もいるのではないか、と思ったからです。
この言葉は、「一部を除く普通の人間は、自分の汚い部分なんか気にするな」という意味なのでしょうか。

まず、僕の思う、偉大かどうかは分からないけれど、「怪物を覗き込み、それを作品化した」人物というのは、中上健次、渋澤龍彦、永山則夫、サド侯爵などです。
彼らは、自分の動物的な部分を研究して、作品として形にしました。
これらの作品には、価値はないのでしょうか。
KAMIYAさんは、「最近の自称芸術家は勘違いしている。芸術とは、モチーフに深く潜り込み、神を称えることだ。しかし、最近の芸術家は自分というものを表現しようとしている。だから下らない作品ばかりなのだ」とおっしゃいましたが、これらの作品もそうなのでしょうか。
芸術としてどうかと問われれば、僕も少し首を捻りますが、僕はこれらの作品には高い文学的価値があると思っていました。凄まじいものと、毒が内在していると。
あまり読んでいませんが、自然主義の心理小説なども、完全に「自分を深く表現した作品」なのではないでしょうか。
これらの作品の価値というのは、どこにあるのでしょうか。
僕がひとつ思いついたのは、自分の汚さや矮小さを露呈することによって、もっと崇高で壮大なことを語ろうとしているのではないか、というものです。
多くの詩では、自分のちっぽけさを表現することで、世界の雄大さを語っていますが、そういう感じなのでしょうか。
これについてお聞かせください。

また、猟奇的エロ漫画家は、まさにある種の哀しみを持って自分の怪物を覗き続けた人物だと僕は信じているのですが、彼らの仕事もまた、「需要があるから仕方なく必要とされるものであって、文化とかいえないもの」なのでしょうか。
僕は、あそこまで自分の欲望と向き合う姿勢に凄まじさを感じていたので、ある種の文化だと信じていたのです。

体調のいいときに、どうかよろしくお願いいたします。

補足回答ありがとうございました。凄まじい教養を積んだ人間だからこそなせる技であり、安易に自分を探るために覗きこむのは危険ということでしょうか?そこにはわがままがあるから。動物的な欲望に引きずり込まれ、ダサい生き方になってしまうから。何かを貫こうという強い意志があったからこそ、芸術家は怪物の場所から戻ることができ、自分の怪物を作品化できたのでしょうか?
僕は年上の女性によく可愛がられます。

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ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2011/11/2208:08:20

ニーチェを引用している、ということが既に答えの一部にもなっている。
ニーチェという人間は、自分が最も愛し大事にしていた神を捨てた男だな。だからその男の言葉というものは人間の苦悩というものを味わい尽くした上で書かれているということなんだ。
彼は神に替わって新たに人生の柱と成るべきものを模索した。当然哲学者なんだからロゴスを求めて自己の中へも深く潜り込んだんだよ。そこで怪物を見出したんだな。
まあここで詳しくは書けないけど、ニーチェの苦悩の大きな部分はこの怪物との関わりなんだ。そしてその闘いは普通の人間には無理だから。だから止めとけと言ってるんだな。
今はスピリチュアルなんかに被れる低脳が多いだろ? 自分の中で勝手に神様をこさえて、自分が優れた存在になったと言い張る人間。
そのくせ現実社会では全くの役立たずのダメ人間よ。当然誰からも見向きもされないし評価も悪い。あれも怪物との関わりなんだよ。
私は己の悲しみを見詰めるなとは言ってないんだ。人間の獣性も認めることが重要なんだよ。だからそういう文学も推奨しているじゃない。ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』だとか。スティーヴンスンの『ジーキル博士とハイド氏』とか。中島敦の『山月記』なんかもそうだな。
ああいうものは人間の内部にある獣性を描いた芸術なんだよ。
しかし、だ。君の挙げた渋澤龍彦他、また私が今挙げた作家、彼らはみんなスゴイ教養人なんだな。マルキ・ド・サドなんて伯爵家の子弟だからな。当時の最高の教育を受けているんだよ。しかも最初はイエズス会の修道士になるための勉強をしていたんだから。
そういう凄まじい教養を持った人間が自分の内部に潜ったから素晴らしい芸術と為したんだ。
また氏賀Y太とかな。『芥虫』の最後の台詞なんて素晴らしいよな。「だってオレは芥虫だから」ってな。ここに深い人間の悲しみを感じるわけだよな。『まいちゃん』シリーズもいいよなぁ。母性、慈しみの魂というものを物質化して見せたんだよな。だから凄まじい暴力描写が際立たせているわけだ。
そしてあのドラム缶殺人な。あれは我々に深い怒りと悲しみを湧かせる。それは自身が人間存在というものについて考察した人間ほど大きいものなんだ。
まあコミックに関してはほんの一部の話だけどな。大抵は読者の劣情を煽るものだから。それでいいものなんだけどな。
芸術に関しては再三言っているけど、本来は神への感謝と寿ぎなんだ。でも今の自分の内部のものも確かに芸術になるんだ。ただし、それは神的なものとの相関にならなければダメなんだよ。そこがわかると本物の詩人になるよ。
歴史上で自分の内部に潜ったものを描き出した作品で芸術性が高いものは全部そう。単に人間の弱さを謳ったものはダメなんだ。その弱さの向こう側にあるものを描き出したものだけが芸術なんだよ。
話を戻して、今は「自分探し」とかするだろ? これは逃避なんだよ。現実でダメダメな自分に我慢が出来なくて、才能だとか本来の自分だとかというものを探そうとする逃げなんだな。
でも自分が何も構築してこなかった奴に何があると言うのか。何も無ければいいんだけど、ちゃんとワガママってものがあるから厄介なんだよ。そしてそこに理屈を付加して行くことになるから、もうどうしようもないの。
よく「自分らしく」なんてみんな言うんだけど。それがどういうことなのか、よくよく考察して行かなければならない。自分って経験の積み上げのことなんだからな。どの経験でもって自分と言おうとしているのか。
春日武彦という精神科医がいる。彼の著作は結構気に入っているんだけど、『本当は不気味で怖ろしい自分探し』というものがあるから。
手ぶらで出掛けるな、ということを私は言っているんだな。どうせワガママの逃避人間になるのか、せいぜいがスピリチュアルのアホウになるだけだから。
行くのなら相当なものを構築してから行けってことよ。まあそういう人間なら自分探しなんて本当はしないんだけどな。

ああそうだ。私の女性の知り合いが何人か、君の変態っぷりがいいと大評判だぞ。「ナカナカかわいい!」ってな。変態を喪うなよ!

補足へ。
そうだね。何故自己の中へ潜るのか、という理由こそが重要だということだ。

質問した人からのコメント

2011/11/24 15:55:54

ありがとうございました。

これからも変態てして生き続けます。

ベストアンサー以外の回答

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pur********さん

2011/11/2312:30:46

深淵≠汚泥

猟奇つながりだけど・・・澁澤龍彦≠深沢七郎

hor********さん

2011/11/2220:10:10

『僕は年上の女性によく可愛がられます。』が最高に素敵(笑)

ven********さん

2011/11/2115:16:39

サドの後に、ジャン・ジュネも入らないかなあ?と思いました。


(横からすみません)

大いに見つめたい側のものです。
あなたのご見解に賛成です。

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