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いやがらせやひやかしなどではありません。 割りと真剣に質問したいのでご回答ね...

al_********さん

2011/11/2504:03:32

いやがらせやひやかしなどではありません。
割りと真剣に質問したいのでご回答ねがいます。

気分を悪くされたら申し訳ないです。
その際にはお詫びと共に、すぐ質問を削除させていただきま

す。


では質問させていてだきます。

あなたの回答を拝見しました。

その回答より、あなたはこの場で、
「生まれ変わり」の存在がある、と、
かならず言い切れるものと捉えます。


なぜあなたは生まれ変わりが存在することがわかるのでしょうか?

自分は特別霊感があるわけでもなく素人です。




しかし、生きたひとりの人間が、なぜ、
死後の世界のことを知り得るのでしょう?

たとえば、よくある死後の世界の例で天国と地獄というものがありますが、

天国や地獄の存在は死んだものにしかわからないはずですが、なぜ、生きている人間がその存在を提唱し得るのでしょう?

生きた人間がその存在を経験する場合は
「夢」や「妄想」や「幻覚」や「思い込み」などの手段しかありません。


このように、「生まれ変わり」や「死後」についてあなたがその仕組みや原理を知り得る根本的な方法があなたの生きている限りでは不可能に思えます。その方法とはいったいいかがなるものなのでしょうか?

大変失礼な質問とは存じますが
回答のほど宜しくお願いします。


尚、このような無礼な質問にご回答いただけた場合にはベストアンサーとわずかばかりの謝礼ですが知恵コイン500枚を贈らせていただきたいと思います。

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ID非公開さん

編集あり2011/11/3022:09:40

Ⅰ経験主義
ブッダは、「梵網経」において、当時の思想界の諸説をすべて取り上げた後、「これらの見解は、存在の本質についてのなんらの知的判断でもなく、渇愛に囚われた者の感覚器官と対象との接触(蝕)からくる感受(受)に過ぎない(中村元監修・春秋社刊・「原始仏典 第一巻」)」と断じました。
ヒュームは、「複合観念」を用いて、「神」とか、「天国」とか、「天使」といった「合理主義者の妄想」は、すべて「『実際の経験』をハサミで切り取って、糊で貼り付けて造り上げた妄想に過ぎない」、と断じました。同じ問題を、ブッダは、本経において、「当時の思想界の諸説をすべて取り上げて行った」、のです。
あわせて、ブッダは、「一切」において、「なにをか一切となすのであろうか」と問い。 続けて、「それは、眼と色(物体)とである。耳と音とである。鼻と匂いとである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。 比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである(増谷文雄訳・筑摩書房刊・阿含経典)」としました。つまり、「感覚にもとづく推論によって得たものを知識根拠とせよ!」とした、のです。
そして、結論として、「合理主義」を廃し、「経験主義」を採用した、のです。既述のとおり、「(合理主義者であろうと経験主義者であろうと、)人間はあらゆる観念を感覚から得ています」 しかも、「感覚の語るものを信じてよい」、からです。

Ⅱ「死後の生」の否定
具体的には、ブッダは、「人間は死後も生存するか生存しないか」とか、「宇宙は常に存在するか存在しないか」といった「形而上学上の問い(十四難)」を問われた際、回答を与えませんでした(前掲書・「阿含経典」の「箭のたとえの経」)。
が、「同じ問い」を受けた本経の「ヴァッチャゴッタの問い」では、同じ回答を与えた後。さらに、「解脱した心をもてる比丘は、いったい、いずこに往きて生まれるであろうか」と問われた際、まず、「人間のその色(肉体)が捨てられて、その頭を伐られその根を断たれたターラの樹のようになる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。……」とし。続けて、「人間のもう一つの構成要素」である「精神的要素(受・想・行・識)」のそれぞれについてもまったく同じ解答を与えました。
すなわち、「死後の生」を全否定した、わけです。
同じく、前掲書の「沙問の果報 その二」においても、まず、「〈私のこの身は、色(物質)より成り、四大(地・水・火・風)より成り、父母の生むところにして、飯と粥との養うところ。したがって、詮ずるところ、無常、破壊、粉砕、そして壊滅するところのものであり、したがって、またわが意識もこれに依存し、これに関連するものである〉と知るのであります」とし、「肉体」だけでなく、「意識」。すなわち、「霊魂」なり、「精神」の「無常」を説きました。
前経より詳細に、「死後の生」を全否定したわけです。

Ⅲ「人間いかに生きるべきか?!」の回答
①「意義ある人生」を送る必要
ところで、ブッダは、同じ「無常」という「真実」から、「たったこれっぽっちの“色(物質)”だって、常住し、恒存し、永住して、変化しないものはないゆえに、よく清浄の行を修して、まさしく苦を滅し尽くすことができるのである(「阿含経典」の「爪頂」)」とし。あわせて、一切の疑問の余地が生じないように、「人間のもう一つの構成要素」である「精神的要素(受・想・行・識)」のそれぞれについても、一々、同じ指摘を繰り返しました。
考えてみますと、カントの妄想とは異なり、もし、人に「“不死の魂”といった“永遠の生”」が与えられているのであれば、サルトルが指摘したとおり、われわれには「永遠の価値も基準」も存在せず、われわれは何をしていてもよくなります。
「二度とない人生」。だからこそ、「ブッダが究明・実践した清浄の行を体現して生活する必要」。普遍的にいいますと、「有意義な人生」を送る必要が生ずる、ことに気づきます。
②道徳の理論的根拠
しかも、ブッダは、「『われらは、ここにあって死ぬはずものである』と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる (中村元訳・岩波文庫・「真理のことば」)」としました。
カントは、「人間には不死の魂がある」と仮定することは、「実践的要請(人間が道徳的にふるまうために仮定すべきこと)」である、としました。一方、ブッダにすれば、「不死の魂があるのであれば、また生まれてくるので、人を殺してもよくなる」 「二度とない人生だから殺すな!」 さらには、「争いすらなくなる」とした、のです。

以上、ブッダは、その存在論をバラモン教の存在論・輪廻転生を否定する「無常(生じたものはまた滅するものである)」とし。そこから、「『人間いかに生きるべきか?!』の回答」を導出した、ことが判明します。

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mas********さん

2011/11/2511:36:37

生まれ変わりとか
天国とか地獄とかは
宗教などで考えられた物でしょう
悪い事したら地獄に堕ちる良い事したら天国に行けるから
しっかりと真面目に生きましょうと言って教育しているのですよ。

fii********さん

2011/11/2509:14:48

たぶん死後のことなんて必ずわからないとおもいます

なぜなら死んで帰ってきた人がいないから

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