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明治維新には新政府のどのような思惑があったのでしょうか?

ryo********さん

2012/3/821:39:12

明治維新には新政府のどのような思惑があったのでしょうか?

明治維新には大政奉還や廃藩置県、四民平等など様々な改革がありますが、
明治新政府はなぜそれを実現させようとしたのでしょうか?
また維新での活躍人物の中に長州藩、薩摩藩の出身者が多いワケも合わせて教えていただけると
うれしいです。

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yam********さん

2012/3/1321:27:36

攘夷思想という言葉を聞いたことがあると思いますが、この攘夷思想とは日本の文化が世界で最も神聖であり素晴らしいものだという考え方に基づいています。

攘夷の「夷」とは「野蛮なもの」という意味で、つまり「異国の野蛮な文化を国内に入れるな」というのが攘夷という考えです。

中国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、無理やりに南京条約を締結させられた上、香港を奪われたことにより日本国内でもうかうかしていたら中国の二の舞になるのではないか…という意識が生まれます。
そんな背景の中、海外の圧力に屈する形で次々と日本に不利な条約を結んでいく徳川幕府に対し「弱体化した徳川にこのまま政治を任せていたら日本はダメになってしまう。」と考える者が増えていき、倒幕の動きにつながっていったのです。

もちろん、日本を強くするためには徳川家康依頼長く続いた古臭いシステムを変えなくてはならないということもあったのでしょう。
特に能力の有無に関わらず代々続いてきた徳川家の世襲政治が日本をダメにしたという考え方は当然強かったはずです。

長州藩の中には早くから倒幕を画策する動きがありましたが、これには関が原の因縁があると言われています。

以下ウィキペディアより抜粋

(毛利輝元は)秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。

ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。
(ここまで抜粋)

以来長州藩は二百数十年に渡って外様として冷遇されることになります。
そのようなこともあり、長州藩は徳川幕府に対する反発心が強かったと言われ、長州藩の中から倒幕の動きが生まれたのも自然なことだったのでしょうね。
もちろん長州藩以外にも徳川幕府による政治に行き詰まりを感じる藩は多く、薩摩藩は長州藩と同盟を結び新政府軍の中心として活動していくことになります。

明治政府の主要ポストには長州藩や薩摩藩出身の人物が多いのはそのためです。

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