ここから本文です

後三年の役で、源氏軍は清原軍の兵を虐殺、ほとんど皆殺しとなる惨状で、 女子供...

後三年の役で、源氏軍は清原軍の兵を虐殺、ほとんど皆殺しとなる惨状で、
女子供まで容赦のないものだったそうですが
清原武衡は、食糧も底をついたので降伏を申し入れていたのでしょう??

それなのにどうして源氏はそんなに酷いことをしたんですか?

閲覧数:
505
回答数:
2

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

job********さん

編集あり2006/5/3118:21:53

たとえば、平清盛は、平治の乱の敵将源義朝の嫡男である頼朝や九郎義経を助けたがゆえに、結果として彼らに敵討ちされて、一族皆殺し平家滅亡の憂き目にあったわけですよ。頼朝にとっては清盛は命の恩人、義経にとっては清盛が父同様の時代もあったわけです。
このように考えれば、温情をかけた清盛には先見性がなかった、という見方もできるわけです。
当時は、敵討ちが美徳の世の中。下手に女子供を殺さずに救って生かすと、今度は自分が女子供の成人後に敵討ちで攻め滅ぼされるという考えがおこっても、当時の論理ではやむをえなかったのではないかと思います。
中国などでは王朝が変われば「一族根絶やし」は常識です。現在の倫理ではなかなか想像の外にあることもあったのでしょう。

質問した人からのコメント

2006/6/3 00:43:29

降参 そうですね。
当時としてはそれも仕方がなかいことだったのですね。
どうもありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

ota********さん

2006/5/3119:07:26

後三年の役・・・
平安後期、1083年から87年にかけて、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱です。
清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(=藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。
兵糧攻めについに耐えきれなくなった清原氏は、柵内の女子供を場外へと出すが、吉彦秀武の言により出てきたものは斬殺し、生きているものは柵内へと戻した。
こうすることで兵糧攻めを徹底的に行うことが出来る。
吉彦秀武は清原軍には着かず、清衡・義家軍に参戦している。
一〇八七年一一月一四日、ついに、金沢城は陥落する。
女子供は自害し、兵士は皆殺しされ、逃げ延びた兵士は千万人に一人もいないという。
清原武衡は城中の池の中に潜んでいたところを発見された。家衡は下郎に扮して間道に逃げようとしたところを発見され討たれる。とらえられた清原氏郎党には、義家の私怨も加わってか非道な仕打ちが待っていたようです。

前九年の役で安倍一族が滅んだあと、後三年の役を経て奥六郡は藤原清衛のものになりました。
http://www.hi-net.ne.jp/~ma/kiyohira.html

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる