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仏教における「唯識論」とは何なのでしょうか。調べてみましたが、本質がわかりま...

y_k_kawa_of_gyroball_kimoteeeeeさん

2012/5/319:41:31

仏教における「唯識論」とは何なのでしょうか。調べてみましたが、本質がわかりません。

調べてみたところ、「無念無想状態で見たもののみが真実で、他は全て虚妄である」というのと、「全ては脳が生み出した幻である」というのを目にし、結局どういうことなのか、ということが気になりました。

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wvztkfljsxnさん

編集あり2012/5/412:31:04

思想というものはある日突然天才が創り上げるものではありません。ある考えの批判とか、ある考えをさらに深めるというように他の思想と何らかのかかわりがあるものです。この唯識もそうです。西洋哲学で言えば、認識論に当たります。

まず、西洋の主だった考え方から申し上げます。
1)プラトンのイデア:
幸せなど理想的なもの(イデア)が我々とは別のところ に存在する。これは我々の現実から遊離したところに我々の存在根拠を置く思想で、形而上学(現代哲学でもよくないと考えられている)と呼ばれています。簡単に言えば、「変化するもの」の中に「本質」というものを考えてきたギリシャ以降の西洋的思考の癖でもあります。プラトンはこの本質をイデアと呼んだのです。
2)デカルト:
よく知られている現代までの科学的見方の元祖とも言える科学哲学です。見るもの(主体)と見られるもの(客体)の分離です。
3)カント:
認識するもの(見るもの)は認識されるもの(見られるもの)の物自体(本質)を認識することはできるかと長く思索してきましたが、結局物自体(本質)は認識することはできないという結論に至りました。
4)現象学:
さまざまな哲学者が従来の変化するもの(現象)と変化しないもの(本質)について独自の論を展開し始めました。ヘーゲル・フッサール・ハイデッガーなどです。現代は形而上学に陥らないため「~現象学」という条件づきの学問が増えてきました。

次にインド哲学(仏教)です。西洋に先駆けて認識論が盛んでした。仏教は最初のころ、バラモン教に反駁する必要性と内部の思想的対立に明け暮れました。
1)説一切有部⇔中論(竜樹)
説一切有部=「あらゆる存在はその元となるものが存在する」という形而上学を主張。
中論(竜樹)=「あらゆるものはそれ自体では存在することはできない。あらゆるもの相互の縁(関係)によって現象が現れてくる」という中論いわゆる「空」という思想を主張しました。
2)虚無主義(悪取空者)⇔唯識(無着・世親兄弟)
虚無主義=「空」というのは「一切のものは何もない無なのか」というニヒリズム。
唯識=ただ識(心)のみ存在するという考え方。識とは「視覚(眼)」「聴覚(耳)」「嗅覚(鼻)」「味覚(舌)」「触覚(身)」が心にあり、一見外部に実体が存在するようには思えるが、実はこの識を通して、心の中にある現象を見ているのであるとする考え方。つまり「主観(見るもの)も客観(見られるもの)も心の中にある」とする考え方である。

西洋流哲学とインド流哲学を比較しながら簡単に言えば上のとおりです。西洋では現象学という言い方が流行ってはいますが、根底では主観と客観を分けています。しかし唯識では主観と客観の場所は識(心)というふうに捉えた独特の世界観です。よく昔の剣豪たちが禅に傾倒したというのは「自分が怖がっているのは外部にある相手の剣ではない。自分の心の中にある剣という現象を恐れているのだ。」と座禅をし、いかなるときも落ち着いた達人・名人が生まれたのかもしれません。しかし座禅の意味は詳しく述べるとそこだけではないのですが、ここではこれで収めます。
他にも似たような質問がありましたのでそちらもご参考になさってください。分かりやすいかどうかの判断はお任せします。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1086517475

なお一切皆平等という思想を持つ仏教は初期には身分制度の永遠に変わらないことに異を唱える下層身分の者に支持され信者は増えましたが、日に日に増すバラモン教からの圧迫に身をもって抵抗するというよりは、高尚な哲学的思想家たちの集団であった仏教から離れていくものも増え、折から外部からのイスラム勢力のインドへの侵攻とともに攻撃的なイスラム教へ改宗していくものがほとんどになりました。それが今のバングラデシュ(旧東パキスタン)とパキスタン(西パキスタン)と言われています。仏教も黙ってみていたわけではなく、バラモン教と対立するだけでは駄目だとし、その中の教説を取り入れた密教という最後の仏教の一派も現れましたが、結局そのバラモン教(現ヒンドゥー教)の中に仏教そのものが取り込まれ仏陀もその中のひとつの神となってしまいました。説一切有部は東南アジア、中論・唯識思想を持った仏教は大乗仏教として中国・日本へと伝わり唯一生き残ったのは日本という国だけでした。・・・とさ。ちなみに浄土教は当時のインドの西に位置する東ローマ帝国のネストリウス派のキリスト教に影響されて外部に神をもつ信仰スタイルに似た阿弥陀信仰を生み出したのではないかと主張する専門家もいます。また三蔵法師で知られている玄奘が訪れたガンダーラは国際都市でさまざまな民族・宗教が入り乱れており、仏教一色ではなかったと言われております。当時のインドの状況について玄奘はどう思ったのでしょうか?

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ryoshediabaさん

2012/5/403:52:57

唯識は難解で、幾重にも説明がなされるものなので、こちらで端的に説明するのは難しいと思います。
かくいう私も、大学で少し学びましたが、その本質が何なのか、未だによく分かりません。

質問文に挙げておられる「無念無想状態が……」「全ては脳が生み出した……」については、よくあるたとえ話として、「蛇縄麻のたとえ」というのがあります。

1本のただの麻縄も、暗がりでこわごわ歩いているときに見ると「蛇」に見える。
でも落ち着いてよく見ると「縄」であることがわかる。
さらによく見ると「麻」でできていることがわかる。

というたとえ話です。
本当は「麻縄」なのに、「暗くてこわい」という邪念が入ると「蛇」に見えてしまう。
「こわい」という感情(心〈脳〉の動き=識)が「蛇」という幻を生み出してしまったということです。
そういう心(脳)の動きを排除してものごとを見れば、本当は「縄」であり「麻」でできているということ(=真理)が自ずと見えてくる。
――というのが「唯識」の考え方であると思います。

実際は、もっと複雑で難解で論理的な解説がなされるものですが、簡単に言うとこんな感じで説明できるのではないかなあと思います。

2012/5/400:39:05

唯識論でも学派に由って少し違いがります。

私も大方忘れてしまいました。信頼できる事典、解説書で学んでください。


唯心(ゆいしん)
すべては心のあらわれにほかならない。
心を離れては一切のものは存在しない。


上記が原点でそこから多くの理論が展開されます。
学術用語を理解しなければなりません。(唯識の)

遍計所執性、 依他起性、円成実性の三性(へんげしょしゅうしょう、えたきしょう、えんじょうじつしょう)等等です

2012/5/400:24:36

無から割り出せばそれもまた論の域をでず虚構である。

気こそすべてであり真実は存在せず、それもまた虚構である。

簡単に言うと直感的に自己の認識範囲にあらわれたものが一応現実として捉えるのが妥当という事か・・・

時は進行し常に変化している以上固定的真実や事実は存在しないということ。

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bainiao56さん

2012/5/322:33:12

唯識(論)は仏教の基礎(論)と呼ばれているみたい
ですよ。唯識に関する本は一冊だけ読みましたが、
大変面白かったです。
唯識もまた空について説いています。
認識の在り様ということで大変勉強になりますね。
非常に簡単にですが、これで。

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