保元の乱の恩賞として、源義朝が左馬頭、平清盛が播磨守になりますが、身分的には違いがあるのでしょうか。。。 また、この恩賞は200騎を率いた者と300騎を率いた者との功労との違いも反映してるのでしょうか。。。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさん、ありがとうございました。 とても、興味深く勉強になりました。

お礼日時:2012/6/17 17:23

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保元の乱直前の官位は次の通りです。 〔平家〕 平清盛 正四位下安芸守兼中務大輔 平頼盛 正五位下常陸介 平教盛 従五位上淡路守 〔源家〕 源義朝 従五位下下野守 常陸国は大国(介正六位下相当)、安芸国は上国(守従五位下相当)、下野・淡路国は下国(守従六位下相当)です。守はその長官で、常陸の場合は親王任国なので、次官の介が実質的な長官です(中務大輔は中務省の次官で正五位上相当)。 以上見れば分かるように、平家の方が源家に比して、官位が上で、特に清盛と義朝では、現在の政府で言えば、局長級と課長級の差です。基本的に、当時の恩賞では、丸剤の官僚の昇進が超越ではなく年功序列と同様に、局長級の昇進を課長級が追い抜くことはないのです。 播磨守は伊予守と並んで温国(四位相当)として、受領(国守)の最高地位でもあり、それだけの収入(実利)があり、院政時代には治天の君の近臣が普通任命されました。その後、公卿へと昇進していく例が多く、公卿の一歩手前の官といった地位です。 右馬寮は馬の管理をする中央官庁で、頭はその長官(従五位上相当)です。全国からの貢馬を管理し、当時の機動力である馬を管理していた関係で、武士がこの寮の官に任免されるようになります。ですから、武士にとって頭、すなわち長官に任命されることは名誉と共に実利もあったのです。なお、清盛の伯父忠正は次官の右馬助の経歴があります。 ですから、清盛が播磨守、義朝が右馬権頭に昇進したのは順当な恩賞なのです。義朝はその後まもなく左馬頭に昇進しています。この段階ではこれで順当なのです。義朝がこの恩賞の差を恨みに思ったというのは後世の伝承です。

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左馬頭と播磨守はどちらも従五位上相当官で官位上の差はありません。しかし左馬頭は武士に人気のある名誉な職であるのに対して播磨守は受領職なので実利があります。平治の乱直後に義朝は四位に叙位、播磨守となっております。恩賞の差を取り返したかったんでしょうかねぇ。短い夢となってしまいますが。

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左馬頭が役所の下級役人なら、播磨守は今で言えば県知事です、どっちが偉いですか。

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平清盛:正四位下 源義朝:従五位下 部長のボーナスと課長のボーナスの 違いのようなもので身分が反映します。