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徳川家康って実は長子信康を疎んでいたのですか?

ike********さん

2012/7/100:10:19

徳川家康って実は長子信康を疎んでいたのですか?

信康の仲介でようやく会った次男秀康も疎んじ、六男忠輝も面影が信康に似ていると言って疎んじてます。

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kui********さん

編集あり2012/7/110:05:43

家康の曳馬浜松城派と信康の岡崎城派とが対立していたというのは、もちろん
徳川家という人間集団のなかでは有り得る話なのですが、それが嫡男切腹と
いう劇的な理由となったかは、はなはだ疑問です。

家康には、後世の私達の感覚からすると驚きですが、実は子供が少なかったと
言えます。
長男・松平信康(1559~1579)
次男・結城秀康(1574~1607)
三男・徳川秀忠(1579~1632)
四男・松平忠吉(1580~1607)
五男・武田信吉(1583~1603)
六男・松平忠輝(1592~1683)
七男・松平松千代(1594~1599)
八男・平岩仙千代(1595~1600)
九男・徳川義直(1601~1650)
十男・徳川頼宣(1602~1671)
十一男・徳川頼房(1603~1661)
家康(1543年~)が一般的な10代20代のまともな歳で生んだ男子は信康のみ
とすら言えますし、まして信康切腹の1579年当時は、生まれて以来謁見すら
許さなかった二男於義伊(秀康)をようやく子と認め、三男秀忠が生まれるか、
という状態でした。

ですので、その唯一の嫡子信康を切腹に追い込むような家内対立があったと
すれば、よほどの異常事態だったでしょう。そんな対立があれば信康切腹よりも
粛清される家臣のほうが重要であり、そんな記録は皆無です(あるのは小姓?
の吉良於初ていど)。作家の典厩五郎がそんな対立案を述べているようですが、
粛清の対象となるのは皆当時の徳川重臣であり、徳川家が天下の大大名に
なってゆく過程でそういった重臣が凋落してゆくのは、古今東西どこでもある
ことです。
切腹を介錯した服部正成や、切腹の二俣城主大久保忠世や、大久保彦左衛門
忠教などみな無事でした。

もし疎んずる気持があったとすれば、信康個人の粗暴な性格ていどでは無いで
しょうか。家康自身がこれ以上ないくらいの苦労人ですから、嫡男としての
プライドに満ちた信康に、粗さを見出すことは多かったでしょう。しかし、それは
短所でもあり長所にもなり、家康には無いカリスマ性を持っていたとも解釈
できます。
忍耐強い家康がそんなことで家政を傾けるとは、絶対に思えません。


二男秀康・六男忠輝を疎んじた理由は、その母親の身分が低かったから、に
尽きます。まして秀康は、なかなか男子が生れぬ時期に授かったのが卑しい
娘の子、という皮肉がよけい腹立たしかったのでしょう。
その疎外は生まれてすぐからの出来事であり、信康のような成人してからの
ケースではありません。


さて、yumati_11さん、mandarin243234さんが語った「信康さえいれば」の愚痴
について。
確かにこのエピソードは司馬遼太郎も(確か「関ヶ原」か何かで)採り上げて
いますが、創作では決してありません。
東照宮御實紀附録三と言いますから徳川実記ですね、この流用です。
http://www.ikedakai.com/cn20/cn23/pg321.html
>また関原の役にあさとく御旗を勝山に進めれし時も。
>さて/\年老て骨の折るゝ事かな。倅が居たらば是程にはあるまじと
>独言の様に仰られしとか。
関ヶ原の戦いで、別に秀忠の遅延に対して愚痴ったのではなくて、江戸から
大垣城の赤坂(勝山)の陣に到着する最後行軍の日に、
「さてさて歳をとって骨が折れることだ。せがれ(信康)が居たならばこれ程
(老年の家康自身の出陣)にはなっていなかったろう」と独り言をおっしゃった。
との記述ですね。
この時点では、徳川家は前軍・後軍に分かれて東山道・東海道を行軍しており、
信康が生きていれば前軍(主力)を秀忠、後軍(本陣)を信康が率いて、俺は
江戸でゆっくり出来たのに、という愚痴でしょう。
司馬氏は時に創作もありますが、あの昭和当時としては物凄い量の史料を
集めて著述していました。その典拠が、今となっては史料批評的な信頼性が
欠けるものも多々ありますが。
この徳川実記も決して信頼性の高い史料とまでは言えませんが、この手の
生臭いエピソードは本当かも知れません。

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aud********さん

2012/7/108:06:38

どうもそうらしいです、自分があぶなくなりそうなので殺しました、じぶんではころさず家来にやらせることで自分はわるくない自然にこうなったのだという概念をうえつけます、信長はこのことにかんしては信長の命令だと世間はいわせていますがほんとうは家康の確執によるものなのです、

lai********さん

2012/7/105:23:05

あきらかに嫌っていたと思います。質問者さんの云うようにあまりに信康に対する態度が冷淡だからです。少なくともかわいい息子とは思っていません。これは生母の築山殿が、無理やり結婚させられた今川家出身の年上の女で、家康が愛情を感じていなかったからでしょう。そんな女の生んだ子に愛情を感じるはずがありません。築山殿と信康は岡崎城に、家康は浜松城に別居生活をしていましたからなおさらです。また家康が若年の頃に生まれせた子ですから年齢も近く、家康にしてみれば競争相手のような意識もあったと思います。こうした事情が重なれば疎んじても当然でしょう。

ef2********さん

2012/7/102:08:35

徳川家の中で岡崎派と浜松派の間で対立があり、家康が岡崎派を粛清したいう説があります。

yum********さん

編集あり2012/7/100:56:55

関ヶ原で秀忠が遅参したのは有名な話ですが、その際家康が「信康ならこんな事には・・」と愚痴を言っていたという話を聞いた事があるので、少なくとも疎んではない・・かな。

次男に関しては家康は元々「本当に自分の子供か」と疑っていたので、信康とかは関係なしに渋々認知した感じだと思います。

六男は赤子の時には既に捨て子同然の扱いをされており、家康と対面し「信康に似ている」と言われたのは少し成長してかららしいので(wikiによると七歳の時だとの事)、やはり信康が直接な原因ではないと思う。

まぁ個人的な意見なので、実際どうだったかはわかりませんがね。


>mandarin243234さん
創作だったのですね。
別の経由で聞いた話だったので知りませんでした。

man********さん

編集あり2012/7/100:38:44

まあ、私は疎んでたと思います。
信康は家康が14歳の時の子であまりにも年齢差が小さすぎて、
まだまだ当主としてバリバリやりたかった、家康としては
扱いにくい存在だったのでしょう。

また、母親の築山殿が今川義元の姪であり、義元から押し付けられた存在で
家康に対して大きな態度を取っていたので、子の信康もあまり家康を尊敬しなかったのかもしれません。

>yumati_11さん
ああ、その関が原の時の発言は
司馬遼太郎の創作です。

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