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長州藩について詳しい方教えてください。身分差に比較的寛容だったり、他藩だった...

wat********さん

2006/8/1400:41:29

長州藩について詳しい方教えてください。身分差に比較的寛容だったり、他藩だったら切腹ものの問題を何度も起こした高杉晋作を重用したり、ユニークなカラーの藩ですよね。かねてから疑問なのはこんな革新的で、血気にはやる若者が多い藩がよく,桂小五郎(木戸孝允)のような慎重な常識人を、リーダーとして擁したものだ、ということです。桂はどんな経緯で長州の指導者の立場になったのですか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

kan********さん

2006/8/1407:17:19

「そうせい公」毛利敬親の性格をよく見抜いていたからだと思うのです。
木戸は高杉とともに藩外との通商をひろげ、藩財政を豊かにした。慶応元年の暮、大久保利通の命を受けた倉田清隆が長州に下って木戸に会い、統幕をめざす薩長の連合を説いた。薩摩不信のわだかまりは根強く、木戸の説得はなかなか実を結ばない。木戸は問題を藩主の面前に持ち出して薩長連合に踏み切らせた。しかし、敬親に激しい対抗意識を燃やしていた島津久光はこの連合成立を知らないのである。木戸は竜馬らのあっせんによって上京して薩摩代表の西郷隆盛との間に倒幕の盟約を結んだ。時に慶応2年正月、幕府が再び征長の軍を起こそうというときで、この盟約の結果幕府軍は大敗することになった。11月には薩摩からの修好使の答礼として、木戸は鹿児島に赴く。こうして薩長の結合はますます強められ、王政復古から倒幕の事業が推し進められていく。そして維新の三功臣の一人となり木戸と大久保は長州藩世子と同じ従三位にじょせられる。
ご質問への回答からは随分かけ離れてしまいましたが、お許しください。

質問した人からのコメント

2006/8/19 23:25:16

降参 お二人ともありがとうございます.参考になりました!

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

mep********さん

2006/8/1511:45:08

当時はすでに幕藩体制は弛緩し、どこの藩でも似た状況でした。福澤諭吉がよい例で、彼は藩命で長崎
の蘭学塾(オランダ人が直接教える)に学びますが、成績のよいのをねたんだ同藩の家老の息子の陰謀
で帰国を命ぜられ、長崎から中津藩を素通りして江戸に出てしまいます。

これは脱藩ですから切腹か上意討ちですが、彼の有能さを知っていた幕府は蕃書調所(のち洋書調所・東大
の前身の1つ:欧米文書の翻訳・情報収集・欧米事情調査の研究機関)に召し抱えます。本来考えられないことです。

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