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飛鳥時代の大阪の港について質問。現代では、難波津=渡辺津説が有力になってるん...

tkg********さん

2012/7/1017:33:31

飛鳥時代の大阪の港について質問。現代では、難波津=渡辺津説が有力になってるんですか?

四天王寺関係のエピソードで、朝鮮半島からの使節や帰国した遣隋使・遣唐使の船が、壮麗な四天王寺を眺めながら難波津に入港する情景が記述されていたりします。
引用した画像は次のサイトから借りましたが、画像のような四天王寺の西の難波津というイメージを抱いてました。
http://www.nakai.or.jp/wonder/tabi/osaka/osaka_uemachi.htm#kodai_ue...

ところが、最近は難波津で検索すると、その所在の有力な説として、中央区高麗橋付近が挙げられていて、渡辺津の位置とよく似てますね。
ということは、????、、、、、
・「難波津」と「渡辺津」が同時に二つ存在したのではなくて、現在の大阪城の北部を流れる大川の川辺に、飛鳥時代には「難波津」があり、後に「渡辺津」という呼び方に変わった。
・朝鮮半島からの使節や帰国した遣隋使・遣唐使の船が、壮麗な四天王寺を眺めながら難波津に入港したというのはデマ。(航路上、壮麗な仏閣や塔は見えない)

ということでしょうか?

四天王寺,難波津,遣隋使,飛鳥時代,遣唐使,仁徳天皇陵,大阪平野

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ベストアンサーに選ばれた回答

kk1********さん

2012/7/1122:33:14

当時の大阪平野は河内潟でしたから、ほぼ海であったと言えます。大阪の四天王寺、住吉大社、堺市の仁徳天皇陵等の(上町台地にあります)、これからの、ほん先は海であったと考えられています。

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