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桓武天皇が日本書紀31巻を焼き捨て、他の箇所も書きかえるよう命じたのはなぜです...

akira_kurosumiさん

2012/10/2911:51:27

桓武天皇が日本書紀31巻を焼き捨て、他の箇所も書きかえるよう命じたのはなぜですか?

「過去に臣が天皇になっている。正しくない。」というのが、31巻を焼き捨てさせた理由のようですが、この天皇になった臣とは、誰ですか?

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2012/10/3108:07:40

臣下と王族の違いから順に見ていく必要がありますね。

高句麗や百済や新羅の王子が日本を訪問した場合、皇室の王子と同等の扱いを受けていた時代がありました。中でも高句麗の王族は特別扱いでした。天照大神のルーツは、大陸の高句麗の高天原(現五女山城址)ですから。皇祖・神功皇后を輩出した息長(天日)氏の日の巫女の王(後世の斎王)は、神宮に住む神子(生き神)扱いの斎の巫女です。高句麗国の王族もまた神子(皇祖神の直系の子孫)と呼ばれました。

夏を興して漢民族を異民族支配した歴史を持つ、大陸の東夷の一族の血を引くのが、扶余・高句麗の王家です。百済はその分家筋です。夷は大と弓を合成した文字で、体が大きく弓の扱いに長けた、漢民族から見て東の地域に住み半農半狩猟生活をする和人(倭人)を指す言葉です。清帝国も夷の王族の末裔が興した国です。応神天皇も夷人の特徴を備えています。和人は扶桑信仰(朝日に対する信仰)を持っていたので、扶桑の国=日本への移住が繰り返されて、弥生時代や古墳時代が生まれました。倭人文化圏は、山東・遼東半島から纏向遺跡まで広がっていました。新羅は、元は辰韓(秦韓)と呼ばれ、高句麗の夷の王族に仕える秦氏の国でした。日本の鉄は脆くて折れやすく刀剣の製造に適さないため、息長氏の分家の者が新羅に渡って昔氏を名乗って第四代国王になったことで、新羅の王室の格が上がって、日本の皇室と同等とみなされるようになりました。その後九州に戻って、香春神社の銅山を支配し、御所ヶ谷神籠石城址を中心に倭国の京都を築いています。

これら高貴な生まれの王子(真人)達の集団を、八真人(やまと)と呼びます。倭と書いても大和と書いても日本と書いてもヤマトと読むのは、本来の八真人の正体を隠すためです。神代(弥生時代)から融和政策を取ってきたのに、いつまでも渡来人意識を持ち続けるのは好ましくないと、飛鳥郷(日が明ける郷)の日女神、天照大神・和魂・明姫(アカルヒメ)が、大和の精神を託宣した結果です。聖徳太子の和を尊ぶ教えは、和人(倭人)文化圏を束ねた歴史を持つ、扶桑信仰の象徴・東明聖王から受け継いだ、夏王朝の時代から四千年の歴史を持つものです。

桓武天皇の視点からすると、親・新羅の九州倭国勢力は、神功皇后(古代音写で息長帯姫=本来の表記は天日照姫、省略すれば天照)=赤留姫(アカルヒメ)を皇祖神としますから、明姫を皇祖神とする飛鳥郷(明日郷)勢力と同じ血統、つまり真人です。天武天皇の壬申の乱による皇位簒奪は、皇祖神・明姫が託宣によって承認したものなので、天皇の立場で異を唱えることは出来ません。後年、倭の赤留姫の皇統から明日郷の明姫の皇統に戻っているので、これ自体は問題ありません。

桓武天皇がどうしても受け入れられなかったのは、日本の国姓とされる姫姓を名乗れない点でした。皇統は日の巫女の王の家から生まれたとされ、その祖先である夷の王族が漢民族を支配した歴史と扶桑(東明)信仰を引き継ぐ要が姫姓です。ところが、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺して皇祖大兄を名乗って皇統に割り込んで、蘇我王朝を樹立しています。馬子は真人ではなく、祖先は平壌を守っていた高句麗の一武将にすぎないという情報もあります。高句麗の主力部隊が遠征に出掛けた隙を突いて攻めてきた遊牧系の一族に平壌城を落されてしまい、海上に逃れて責任の追及を恐れてそのまま行方不明になった武将がいたようです。その武将がどうやら馬子と繋がりを持つようです。皇祖大兄と呼ばれる架空の人物は、息長庄(現忍坂)所縁の者であることを仄めかす『押坂』彦人大兄皇子を名乗って、天皇の娘三人を妻とし、天皇を凌ぐ墓域を持つ墓に葬られて、天照大神・男神として皇祖神扱いされた時代があります。桓武天皇は皇統への身分違いの不名誉な臣下の割り込み劇を、後世に残せないと判断して、馬子=皇祖大兄は天皇に即位しなかったとし、朝鮮半島との関係を記述した個所を改ざんさせて、史実を隠蔽したようです。当家の歴史学者が平安末期に文書化して神庫に残した情報によると、馬子=皇祖大兄は息長氏と姻戚関係を持ちますが、真人ではないとあります。

したがって現在の天皇は、日本の国姓である姫姓を名乗る資格を有しておらず、皇室は姓を持たないと公言して、夏王朝から受け継ぐ扶桑(東明)信仰・大和(夷)民族四千年の歴史と精神を隠ぺいしてきたのです。高句麗王室は、天照大神(女神・柳花=瀬織津姫)の皇孫で神子と呼ばれた歴史がありますが、天皇は神子と呼ばれたことがなく、日の巫女の王(後の斎王)より位が下とされた時代もありました(これは卑弥呼の例を見ても明らかでしょう)。崇峻天皇を暗殺して、強引に皇統に割り込んだ蘇我馬子を、皇祖神・天照大神(男神・東明聖王)として崇める日本人は今では一人もおらず、東明信仰も忘れ去られてますね。

質問した人からのコメント

2012/10/31 13:24:10

大和民族と皇統の歴史を成立過程から解説して頂き、ありがとうございました。伊勢神宮の内宮に祀られている木製の男神の象徴が何を意味するのか気になっていたのですが、本来の太陽(扶桑)信仰の象徴である東明聖王を幻の皇祖神の蘇我馬子とともに封印した結果と、合点がいきました。

他の方もありがとうございました。

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pinponbaka2さん

2012/10/2920:47:29

「桓武」が焼き捨てたのは720年に撰上された「日本紀」で、「九州倭国系の史書」だから焚書の憂き目にあったのです。
一度「天智ー藤原系」は、668年に「九州倭国」が歴史を展開している最中に、「近江に政権を樹立します(天智の乱)」です、でもこの政権は「九州倭国」によって潰されてしまいます、これが「壬申の乱」です。
その後も「九州倭国の皇統」で推移するのですが、「聖武」が男子の後継者に恵まれず、娘である「孝謙称徳」代で断絶します、代わって即位したのが「天智―藤原系の光仁(天智の孫)」、次に即位したのが「桓武(天智のひ孫)」です。
「壬申の乱」で一旦つぶれた「天智ー大友」が復権し、「光仁ー桓武」を経て現在の天皇家に継続されています。
ですから、「九州倭国系の日本紀」は、「天智―藤原系」にとって都合が悪かったのです。
「過去に臣が天皇になっていて、正しくない」は、「天智―藤原系史観」での解釈で、「九州倭国」の皇統の事を言っているのです。
「九州倭国の皇統」とは「筑紫君薩野馬(大皇)ー高市皇子(大皇の息子)ー文武(草壁と阿閇皇女の子ではなく、高市と阿閇皇女の子)ー聖武(高市の孫)ー孝謙称徳(聖武の娘)」です。

gom716さん

2012/10/2912:13:57

たぶん天武天皇と、その系統でしょう。

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