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徳川家康について 家康は関ヶ原の合戦のおり、小山評定後江戸に帰郷する際、栗...

d73********さん

2013/4/2021:09:31

徳川家康について

家康は関ヶ原の合戦のおり、小山評定後江戸に帰郷する際、栗橋で川に架かっていた舟橋を味方が渡りきる前に分断しています。
この家康の行為によって残された東軍側は舟を仕立てて川を渡る事になり「迷惑限りなし」と言ったと「慶長年中卜斎記」に記述されています。

家康はなぜ味方が渡りきらないうちに舟橋を分断したのでしょう?
上杉の追撃が怖かったから?
それとも石田三成との決戦に気が急いていたから?

皆さんの意見を聞かせて下さい。

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kui********さん

編集あり2013/4/2220:23:54

家康が栗橋の舟橋を切り、後続部隊が「迷惑限りなし」と記したのは、ご質問の
とおり家康の従医板坂卜斎です。
彼の著述は、日付などに若干の間違いが認められる(卜斎記が成立したのは
数十年経った時期なので)ものの、定性的な記述については非常に信頼性が
高い一次史料だといえると思います。

さて、ご質問の舟橋破棄について、当時の状況をふまえながら見てみましょう。

(1)状況

家康が上杉征伐から引き返して栗橋の渡しを渡った8月4日、確かに情勢は
家康に不利でした。
7月25日(頃)の小山評定によって、東軍諸将は雪崩をうって西上します。小山・
宇都宮に居た東軍諸将の大軍勢が一気に清州城へと向かい、→東海道→
→清州へと移動したのです。
そして残されたのは、徳川勢と関東一円の大名のみでした。詳細は、宇都宮城
に秀忠率いる徳川前軍(約3万)と、下野・上野・安房・信濃の諸大名たち
(約1万)。小山には家康率いる徳川後軍(約3万)でした。
蜂起した西軍に対してある意味「好き放題」に清州へ移動した東軍と違って、
残った彼らにはさまざまな難題が突きつけられていました。
① 開戦直前の上杉勢にどう対処するか。
② 上方の西軍の動向はどうか。
③ 全国の諸大名への勧誘政略。
史上有名な家康の100通を超える大量な書状発布は、まさにこの時期の
混乱によるものです。
泣くまで待とう、という後世の誤解と違って実際は性分が短気な家康ですから、
何もかもに時間がかかる書状通達にあけくれるこの日々は、さぞストレスが
溜まっていたことでしょう。
さて、こんな状況の8月4日に、家康は小山から江戸に帰城するために栗橋を
通ります。その舟橋破棄の推論を考察します。

(2)上杉脅威説

8月4日段階、江戸に帰城する家康の後ろには、上記の宇都宮城の大軍勢が
控えていました。
彼が危機的状況に陥っていたことは間違い有りませんが、まだ開戦もしていない
遥か遠く白河以北の上杉勢を恐れたあまり栗橋の舟橋を破棄する、というのは
流石に有り得ないと、これは断言できます。

(3)多賀谷・佐竹脅威説

小山に滞陣している間に「佐竹が西軍に寝返る」という噂は立っていました。
後年家康が「困るほどの律儀者」と評した佐竹義宜は、前年の伏見での三成
襲撃事件の際にも天下を相手に三成を護る律儀ぶりを発揮しており、当然
佐竹家が西軍になる可能性は当時からありました。
小山は佐竹与党の多賀谷氏下妻城から10kmと近く、上記(2)上杉の脅威
よりも遥かに危険な状態で、当の多賀谷重経が小山の家康襲撃を佐竹義宜に
進言していたのです。(律儀な義宜はこれも拒否・・・)
よって、この多賀谷・佐竹襲撃に備えて舟橋破棄した、という可能性は充分に
考えられると思います。
ただ歴戦のエピソードでも、戦時の陣内戦意を神経質に偏重する家康です。
(この2ヶ月前にも大坂城で、「会津の峠では数的優位になれぬのでご注意を」
という進言に対して「1対1でも苦戦せんわ」と機嫌を損ねます)
敵を「恐れた」と思われる行為は忌避するのでは?と個人的には思います。

(3)うっかり説

短気でうっかりな家康のことですから、あまり考えずに破棄した可能性もあります。
同じ卜斎記に、「東軍諸将の大軍勢の西上により街道はぬかるみ、馬は膝下
まで埋まった」とあります。当時は長槍は腰に結んで引きずって行軍するもの
でしたが、「槍や旗竿を数本まとめて23人で担いで運んだ」とも。
こんな難行軍の街道を江戸まで帰るのをうんざりと思った家康は、古河から江戸に
船で下向します。(古河からは、渡良瀬川→現在の江戸川の流路を使って江戸
まで容易に下向できます)
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/education/image/toneriver.jpg
その際に、古河のすこし先の栗橋の舟橋を「御きらせ」、家康勢が栗橋を渡る際
には渡し船「小船五六艘」を使うしか無くなりました。この小船とは、間違いなく
解体した舟橋の船でしょう。まったく、意味不明な行為です。
当時東軍の大半はすでに西上済み(卜斎記「(7月)晦日大かた引きとる」)で、
残るは家康勢だけでした。ひょっとすると家康の指示がうまく伝わらず、渡った
後ではなく渡る前に舟橋を破棄したミスなのかも知れません。
後日の秀忠の関ヶ原遅参といい、大坂の陣での惨敗といい、どうもこの当時の
徳川家には、16年前の長久手の戦い以来実戦から遠ざかったことで、未経験の
大軍勢を効率的に運用するノウハウが欠落していた気がするんですよね。

質問した人からのコメント

2013/4/27 20:15:46

回答ありがとうございます。
「うっかりしていた」あるいは「混乱していた」と言うのは全く念頭に無かったので目が覚めた思いです。
家康についてはなるべく客観的に評価していたつもりですが、いつの間にか偏った評価になっていたようです。
もう一度勉強し直したいと思います。
他の方も回答ありがとうございました。

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sek********さん

2013/4/2202:18:29

上杉の追撃を恐れたと言うのもありますが、東軍武将の大名連中を囮にしようとしたという事も考えられます。
上杉が追撃し足止めに当てていた結城秀康や蒲生秀行らの軍勢が破られれば自分の命が危うくなる可能性があるので、東軍大名に上杉軍の相手をさせて徳川軍だけで江戸に戻るつもりだったのではないかと。
家康にしてみれば東軍大名は外様大名ばかりであり彼らが上杉軍や西軍との戦で滅びたとしても、戦後に与える恩賞が必要なくなりその分自分たちの懐に入れられるのでむしろ滅びた方が都合が良かったのです。
それに彼らが滅びれば徳川家の天下になった後の脅威が減るので一石二鳥だったわけです。
本来家康は徳川軍だけで西軍を破る腹積もりでしたが秀忠率いる軍勢が上田城で真田昌幸によって翻弄され決戦に間に合わなかったので、戦後に東軍の外様大名に大幅な加増をしなければならなくなったのです。
西軍は一枚岩なので調略や謀略で切り崩し裏切りを呼び込めば徳川軍だけでも勝てると考えていたのでしょうね。
例え東軍大名が上杉軍に敗北し悉く滅んだとしても伊達政宗や最上義光や堀秀治らの軍勢が上杉軍を攻めるので戦力的にも上杉軍が徳川軍を追撃するだけの余裕は無いと思われます。
家康にしてみれば外様の東軍大名が滅んでも損する事は何一つ無かったので、東軍大名を生贄に捧げて上杉軍の追撃から逃れるのが狙いだったと思われます。

あんなさん

2013/4/2023:59:48

上杉の追撃を恐れたから、かもしれません。
上杉景勝は「戦術上当然」という
徳川軍の追撃をしませんでした。
それに対して家康は
結城秀康・伊達・最上などに
上杉軍の足止めを命じていたはずです。
本来なら、
その上で上杉軍の追撃を恐れるというのは、
あまりに小心です。
しかし「万難を排する」という意味では
細心というべきでしょう。

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