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家康が上杉征伐行く時に、家康や諸将はどれぐらい三成挙兵を予想してましたか?

shi********さん

2013/4/2621:28:56

家康が上杉征伐行く時に、家康や諸将はどれぐらい三成挙兵を予想してましたか?

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kan********さん

編集あり2013/4/3001:20:34

黒田如水、長政親子は西軍挙兵後、「こうなると思った」と書き残しています。上杉家も6月に、会津征伐に石田三成や福島正則が応じないとの噂を把握しています。上方で不満分子が爆発するかもしれないくらいにはみな思っていたでしょう。ただ、果たしてどの程度の規模を想定していたかは疑問が残ります。 ちなみに如水は「毛利様が大坂に入って天下を治めるのは目出度い」との書状も出しています。結果的に東軍に付く大名も多くはどちらが勝ってもいいように動いています。

疑問を抱く理由として大きいのは、豊臣政権の本拠大坂城と都の拠点伏見城を奪われている点です。徳川家康が上方で実権を握れたのは豊臣秀頼を掌握しているからであり、豊臣恩顧の諸大名を率いて会津に向かいながら、帝のいる都と共に手放しておいて、「想定内だ」では愚かすぎると思うのです。家康が最初から豊臣家との全面戦争を狙っていたなら分かりますが。家康は伏見城などに有事の手当てをした上で、会津に向かった、極めて常識的な対応をしたものと考えます。

また、 三成と大谷挙兵の第一報は淀殿と奉行衆などが家康に通報しています。三成挙兵に慌てて家康に帰還を求めるのですが、ご存じのように彼らは西軍に加担します。家康は三成挙兵を知り、西上しますが、奉行衆の離反つまり大坂が西軍に付いたと知って黒田長政を呼んで対応を相談しています。思ってたのと違う流れになったからでしょう。その後江戸にしばらく滞在したのも先発の豊臣恩顧の諸大名の動向を疑ったからだとされます。伊達政宗は井伊直政らへの書状で三成挙兵が起きた理由を「家康が世間を甘く見ているから」と厳しく指摘し、「奉行衆が西軍に付いたら上方は闇だ」と述べていますが、その後、政宗が危惧した通りになったのです。

西軍方の動きも早くから計画したものに見えません。宇喜多秀家は豊国神社を二度訪れています。一度目は会津征伐、二度目は家康討伐を祈願したものでしょう。先程述べた奉行衆も同様です。彼らでさえ最初は西軍に付こうとしていないのに、家康が先回りしてすべて読み切っているというのはいくらなんでも神君伝説過ぎます。

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mrd********さん

2013/4/2720:48:53

全て計算済みであったと思われます。

mat********さん

2013/4/2622:13:39

ほぼ全ての武将がわかっていたと思いますよ。

そのまま、上杉征伐へ向かっていれば歴史が変わっていたのかもしれませんね。

anf********さん

2013/4/2621:35:29

家康は予想をしていたので、結城秀康に軍勢を預けて上杉が南下への抑えとしています。
おそらく、この時点で誰もが承知していたというのが妥当でしょう。

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