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徳川家康が関ヶ原に勝利し幕府を開き幕藩体制を確立させていく中で自分の子供を大...

jfx********さん

2013/5/2020:12:17

徳川家康が関ヶ原に勝利し幕府を開き幕藩体制を確立させていく中で自分の子供を大名にしていきます。秀忠や家光も少しは関与してるだろうが、大半は家康の判断です。 息子の態度や秀頼を討つ言い訳や病気や理由は有りますがやけに幼い弟のみ家を残してます。家康に何か考えがあったか、家康秀忠の確執(影武者徳川家康みたいな)か?

考えを聞かせて下さい。

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kui********さん

2013/5/2321:35:05

家康の男子は、実は危険な状況だったとも言えるほど、恵まれませんでした。

長男・松平信康(1559~1579)
次男・結城秀康(1574~1607)
三男・徳川秀忠(1579~1632)
四男・松平忠吉(1580~1607)
五男・武田信吉(1583~1603)
六男・松平忠輝(1592~1683)
七男・松平松千代(1594~1599)
八男・平岩仙千代(1595~1600)
九男・徳川義直(1601~1650)
十男・徳川頼宣(1602~1671)
十一男・徳川頼房(1603~1661)

つまり1607年時点では、家康には男子としてたった5人、
徳川秀忠 28歳
松平忠輝 15歳
徳川義直 6歳
徳川頼宣 5歳
徳川頼房 4歳
(ちなみに徳川家光 3歳)
しかいませんでした。

家康は、1599年の七男の夭逝からわずか8年で五人もの男子を立て続けに
失っていたのです。当時の衛生学的な死亡率から見てもかなりの不運で、
当然ながら幼年の息子達などはいつ死ぬか不安で心配でならなかった
でしょう。
1607年時点で64歳という老年の家康の健康に何かあったら、徳川家は年長の
秀忠28歳だけが頼りとなってしまう状況でした。そして次兄たる15歳の忠輝も
この時点では川中島12万石と、義直25万石よりも冷遇されるという家康から
疎まれた境遇でした。

つまりこの時点で家康には、徳川家の「血脈」のストックとして末弟の義直・
頼宣・頼房に家禄をあたえるしか選択肢が無かったのです。
もし、既に成年して戦功も立てていた秀康・忠吉・信吉たちが早世しなかったら、
彼らこそ徳川家を支える大大名として君臨し、幼い三末弟たちに大禄を与える
ことは無かったかも知れません。
そしてもし、家康がこの三末弟(=御三家)を産んでいなかったら、徳川家の
安定的な継嗣選択は大変難しいことになり、史実よりも大幅に不安定な政権
となったでしょう。

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gnd********さん

2013/5/2022:06:35

秀忠と江の間には嫡子が中々生まれませんでした。女の子ばかりたて続けに!
徳川宗家を守る為に!
4男忠吉・5男信吉・7男松千代・8男仙千代は死んでるので除外。残るは6男忠輝ですが、父・兄から嫌われたか?理由は解かりませんが越後72万石を没収。身内にも厳しさを見せ付ける為かは解かりませんが?後に禍根を残さないように!
それに年取った子供は可愛いとの事!家康はもし秀忠の子供に何か有れば9男義直を、義直亡き時は頼宣・頼房と考えていたようで、さすれば忠輝はやっぱ邪魔になるでしょう?
従順無垢な幼子と、ひねくれて嫌われ者の6男。本家・宗家に大事あれば9・10・11男がとの考えでは?
家康の周りには学者も多く、鎌倉幕府の様に源氏の血を引く者がいなくなって北条氏に取って代わられた事例や、長子や早く生まれた事例で新田や足利の確執等も有るので?
次男秀康の子、越前の忠直と越後の忠輝、二人とも北陸の地で松平姓。将軍家と御三家は徳川姓。確執を懸念するのは当然。

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2013/5/2020:28:57

三代家光と歳が近いので、秀忠の次の将軍継嗣の問題の対抗馬としてお家騒動が起こらないように、将軍の嫡子である家光とは格が違う事をはっきりわからせたのです。

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