ここから本文です

工藤玄治工藤会(工藤連合草野一家)総裁について。

kok********さん

2013/6/1219:37:09

工藤玄治工藤会(工藤連合草野一家)総裁について。

工藤玄治氏の経歴について、
どのように渡世入りをしたのかなど、
渡世上の経歴を知りたいので、
回答できる方よろしくお願いします。

補足回答ありがとうございます。
大変恐縮ですが、
工藤組結成以前のことを知りませんでしょうか?

吉田磯吉系列というのはよく聞くのですが、
なぜでしょうか?

よろしくお願いします。

閲覧数:
21,011
回答数:
1
お礼:
100枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

kis********さん

編集あり2013/6/1307:39:59

こんばんは。

どこまで期待にお応えできるかは疑問ですが、可能な限りお答えします。

工藤玄治・初代工藤會会長は、明治30年代に北九州市若松で活躍した大侠客、吉田磯吉が源流となった「川筋(かわすじ)気質」を受け継いでいると言われており、この気風は「命知らずで面倒見がいい」事です。

工藤玄治は戦前、福岡の小倉に博徒組織「工藤組」を立ち上げます。

その名が世間に知られる契機になったのは、昭和21(1946)年に山口県の合田一家と共闘で朝鮮連盟の構成員と大乱闘を起こした(場所は福間競馬場)一件です。

その後で一番有名なのは昭和38(1963)年に三代目山口組の九州進出に端を発した抗争で、この抗争では一度手打ちが決裂した後、工藤組系の組員が山口組系安藤組組員ふたりを拉致し、北九州市を流れる紫川の河川敷で虐殺した「紫川事件」が起こります。これに関連して、後に激しい身内同士での争いを起こし、その後二代目を襲名する草野高明は服役することとなります。


そして、刑期を終え出所した草野氏は工藤組を脱退し、「草野一家」を立ち上げます。当然、工藤氏は激怒し、両者は抗争に突入します。

激しい抗争を繰り返した両者ですが、昭和61(1987)年に合併し、組織名を「工藤連合草野一家」として再スタートします。

その後は草野氏が二代目を襲名し、三代目を襲名した溝下秀男氏が平成2(1990)年に現在の「工藤會」に改称し、その後は四代目に野村悟氏、五代目には田上文雄氏が就いて現在に至っています。

非常に長々となりましたが、こんな感じです

補足拝見しました。

すみません、工藤組結成以前の事は分かりませんが、これは私の推測なのですが、吉田磯吉の影響を受けた博徒や賭場が多くあり、工藤氏もそのなかで多くの賭場を出入りしたり、博徒との交流のなかで、その血脈が流れていたのではないでしょうか?また、賭場をしきっていたなら当然影響を受けたと思います。

質問した人からのコメント

2013/6/18 10:25:37

笑う 丁寧な回答ありがとうございました。

「工藤會」の歴史がよくわかりました。
ありがとうございました。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる