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平泉の藤原氏は源頼朝に攻められた時、ろくに抵抗のしないまま、滅ぼされてしまい...

air********さん

2013/7/1707:45:20

平泉の藤原氏は源頼朝に攻められた時、ろくに抵抗のしないまま、滅ぼされてしまいましたが、奥州17万騎は、どこに消えてしまったのでさょうか?

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hom********さん

2013/7/1712:42:29

動員力を表した数字だったのでしょう。
幕末には旗本八万騎と言われていましたが
全然動いていません。
奥州藤原氏の繁栄を象徴する数字だったのです。

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yuj********さん

2013/7/2321:00:20

鎌倉軍の主力のほとんどは、つい最近まで平家との戦で最前線を戦っていた人がほとんどだったんです。一方の奥州軍は、後三年の役から約100年もたっていて平和な時代が続いていました。そのため戦を知らない世代が多く育ったから。いくら無敵の軍を持っていても経験豊富な鎌倉軍に対して、平和が長く続き、実戦経験が無いに等しい奥州軍じゃ、話にならないでしょう。

kdk********さん

2013/7/1721:27:19

>源頼朝に攻められた時、ろくに抵抗のしないまま、滅ぼされてしまいました
いえいえ、現在の福島市の北にある厚樫山と言うところから阿武隈川まで全長4km以上の大防塁を建設し、ほとんどの軍勢を投入して鎌倉郡を迎え撃って大激戦を繰り広げています。
この決戦に敗れた平泉軍は態勢を立て直すことができずに、一気に平泉まで攻めこまれたのです。
数については確実の誇張であって、当てになりません。
また、秀衡没後に弟の忠衡と相続争いをしており、奥州藤原氏は内紛で弱体化していました。
さらに、同盟関係にあった越後の城氏、磐城の海道平氏が頼朝の調略によって鎌倉軍に寝返ったことも痛かったでしょう。
ちなみに、阿津賀志山の防塁は現在でも残っており、確か国の史跡になっていたはずです。

zev********さん

2013/7/1707:51:43

17万という数字じたい、誇張されたものとするのが妥当でしょう。
合戦前は、威嚇の意味もこめて多めに吹聴されるものです。

実勢は4万~5万というところでは。

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