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家康は徳川家の政権が三百年間つづくという 風には思っていたのでしょうか? ...

家康は徳川家の政権が三百年間つづくという
風には思っていたのでしょうか?

また政権を長らく続かせるためにもっとも必要
と家康が考えていたものは何だったのでしょうか?

補足お三方のお話、みな勉強になりました。

投票とさせて頂きます。

ありがとうございました。

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gnd********さん

2013/8/1411:11:23

武士の世の中が続けば、まだ続いていたかも?
江戸幕府を潰すものは、他の武家(大名)か天皇と考えてました。
天皇と朝廷は京都所司代と禁中公家諸法度で!
あと水戸家には、将来もし徳川と天皇家の戦いになったら天皇に付けと。だから水戸家は勤皇です。
他の大名も関東と東国に親藩の大名を配置してるので、西国大名が敵対すると仮定してました。
すべて読みは当てってましたが、最後の将軍が水戸家出身の慶喜公だったし!
薩長土肥すべて西国だったので、西国にも御三家や親藩の大名を多く置いていたら?

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kam********さん

2013/8/1420:40:32

徳川家康って、つまり「国家安康」であり、「南無阿弥家康」ですよ。彼は、彼だけが、戦国の世を終わらせて、武力を使わなくても安定社会を実現する理念を持っていた唯一の武家だったのです。

特に、徳川家康は、浄土宗(法然聖人)の武家だった。浄土宗の武家は、「南無阿弥陀仏」を十遍唱えれば死者を極楽に往生させる能力があった。
だから徳川家康は、戦で死んだ自軍の兵士たちに「南無阿弥陀仏」と唱えて、供養した。戦いで死んでも、極楽往生させてくれる主君がいることで、徳川軍は強かった。

家康は、関が原で勝利して、江戸幕府を開くと、「南無阿弥家康」「国家安康」に突き進んで、葬式仏教を国民全員に強制して、どの家族もどこかの仏教宗派のお寺に属すること、どの家庭にも仏壇を置いて先祖供養すること、亡くなればお寺の自分の家系の墓に入って名前を刻まれること、という日本国民総仏教徒化政策を推し進めた。
徳川家康こそ、日本国民総葬式仏教徒政策を推し進めた張本人だった。

その結果、全ての日本国民は、どんな無名の庶民たちも、墓に名前を刻まれて、そういう人がいたこと未来に伝えられる存在になった。その結果、社会は安定し、江戸時代は三百年近くもほとんど平和状態で続いた。

par********さん

2013/8/1408:43:01

家康もやれることはやりましたが、家光の時代には「永久に
続く」と思える位、封建制度を確立しましたね。
もしかすると、家康の遺言などもあったかと思えるほどですが、
がんじがらめの状態では、反乱を起こしてもすぐに鎮圧されること
位、誰にでもわかりますね。
身分制度で抑圧した上、藩にしても生かさず殺さずのやり方で、
軍事行動すら出来そうにありませんね。

結果的には身分制度で、市民を抑圧出来たことが大きいのですが、
当初はまず、豊臣氏と関係者の排除が重要と考えたはずです。
次に外様大名の弱体化。参勤交代や人質は人的にも、経済的にも
有効だったと思いますね。
身内にしても、大きな権力を与えないようにして抑圧しています。

もしかすると、家康のことですから、米経済が破綻する時代が来ると
予測はしていたかもしれませんね。

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