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メロディーの組み合わせの限界説をよく聞きます。古今東西の作曲家が曲のアイデアをほぼ出し尽くしていて、もう斬新なメロディーは出てこないのでは?ということです。皆様のご見解をお願いします。・・・個人的には

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あえて、希望的観測で詳説を述べてくださった方をBAとさせていただきます。皆様、ありがとうございました。・・・しかし、もし例えば1万年後に人類がまだ存在するとして、20世紀付近の音楽は、新鮮なメロディーの宝庫として特筆される時代であったといわれることは確実でしょうね。

お礼日時:2013/8/25 8:23

その他の回答(5件)

音楽は、言うまでもなく人の感覚に訴えかけるものですから、その新鮮さや斬新さといったものもいつか賞味期限がやって来てしまいます。とくに現代は、メディアの発達が著しいので、何か目新しい物事が生じると瞬く間に世界中の人々の知ることになってしまいます。そうなると私たちの感覚も麻痺しがちで、不謹慎な物言いを許していただくと、どのような大災害や大事故が起きてもそのときは熱心になりますが、やがてすぐサチュレイトしてしまって、はい、お次のニュースということになりがちです。 18、9世紀のクラシック音楽の作曲家たちも、特定のパラダイムの中で、あるいはそのパラダイムに乗っかって創作活動をおこなって来ましたが、また創作の欲求が高まれば高まるほどそのパラダイムはサチュレイト状態となり限界を迎える、と言うかそのパラダイムを乗り越えよう、壊そうと考える人々が現れて来ます。この頃の最初の方ではベートーヴェンが、後半ではリストなどが有名ですね。 何事によらずパラダイムというのはある意味便利ですが、先の欲求が高じてくると足枷にもなってしまいます。ロマン派の作曲家たちは、文学を一つの取っ掛かりとして人間の精神的な部分を音楽で、あるいは音楽と強く結びつけて創作表現しようと考えたようですが、それが段々と既存のパラダイムへの「非執着」へとつながります。 その先が無調性音楽や十二音技法による音楽の到来となるわけですが、それが結果的にその後の音楽史にどれくらい貢献したかとか、汎用されたかということよりも、私には、音楽がこの時代の作曲家たちから更なる欲求、つまりそれまでの枠組みに当てはめて拵えるという創作方法から、いま正に作曲家の頭の中に浮かんだ音その物を音楽として再現(表現)したいという欲求に変わってきたのだと思うのです。ですから、シェーンベルクらのおこなったことは、失敗ではなく通過点だと考えます。 楽曲はメロディだけで出来ているのでないのは言うまでもありませんが、単純に音の配列・組み合わせによる特定の規模を持ったパターンと考えるより、楽曲の構成から見てその音楽を有機的に動かす素材として扱う、こう言うと結局ベートーヴェンやヴァークナーにまた舞い戻ってくるハメになってしまいますが、そういうことの方にいまの私たちはかえって慣れてしまっていると思います。もちろん昨今歌える歌が少なくなったということも耳にしますが、同時に十数秒のTVコマーシャル用の音楽に私たちは飼いならされ過ぎているようにも思います。

私は現代は世界の作曲家が作曲の創造的アイデアを出し尽くしつつある危機的な状況だと思います。それもクラシックや現代音楽に限らずジャズやロックやポップスや映画音楽の世界も同様です。 ショパンやリストの生きていた時代には、彼らと同じようなメロディやリズムでピアノ曲を書いていた作曲家が数百人はいただろうとという説があります。それから考えると、もしショパンやリストが生まれていなかったとしても、彼らの同時代には彼らと同じような着想の曲(個性が異なるので全く同じとはいかないが)を書いた「第二のショパン」や「別のリスト」が現れていた可能性は高いと思います。 単純な「組み合わせ論」や「確率論」的な発想からみれば、まだまだ発掘されていないメロディがあるだろうと考えがちですが、現実はそれほど甘くないのではないでしょうか。私は音楽の世界で斬新なアイデアが枯渇してきている状態だと思います。 過去60~70年にわたる録音・録画とその再生技術、それにコンピューターの著しい進歩がその一番の原因だと思います。我々はそれらの技術のお蔭でいま音楽を「いつでも好きな時に好きな場所で安価で簡単に」聴くことができます。それも同じ曲を何度でも。(録音技術のない時代には同じ音楽を何度も繰り返し聴くという楽しみは王侯貴族以外考えられなかった) その結果何が起きたか。我々は「耳が肥えてすぎてしまった」。「耳がメタボ状態」になってしまったのです。料理研究家(作曲家)が如何に新しい料理を考え出しても、過去に似た料理(曲)があれば誰もそれに手を付けようとは思わない。また同じ料理を様々なコック(演奏家)がちょっと違う味付けをしてもすぐ飽きてしまう状態。斬新な音楽に対する渇望が増えるのとは逆に斬新な音楽を生み出すことがますます難しくなってしまいました。 そんなメタボ状態の消費者(視聴者)がいくら「斬新な曲を作れ!」と言っても作曲家を追い込むばかり。作っても斬新でないと言われる、作っても似たような曲ばかり、作ってもすぐに飽きられてしまう、作っても金にならない、これじゃ誰も作らないと思います。テレビを見ているとポップス番組も過去の曲ばかり取り上げてお茶を濁していますね。みんな同じく危機的状況です。

しろーとなんで、わかりませんが、ショパンとか、ドビッシーとか好きですけどね、天才だなあって思いますよ。で、どちらも、民族とか、自然とか、文化や、物の感じ方や、時間の流れ方を、なんとなく感じさせてくれますよね。あの時代を逃していたら、存在しなかったと思います。 今の時代、作曲家が食べていくには、多くの人が繫がっている産業のために作らないといけない。ゲームのBGM、コマーシャルソング映画音楽など、大衆を意識ししないといけません。ショパンが、生きていたとしても、そういうことしているでしょうね。 今、音楽を使って、ヨーロッパで若者の社交界の花形になるためには、ピアノを奏でるのではなく、コンピューターでテクノつくることなので、ショパンも、そうしていたでしょうね。アイデアの達人なので、それなりに成功していたでしょう。 クラッシクの分野で斬新なものを作るのは、出尽くした感じがありますね。実験音楽みたいなつまらないものがでてきてしまったでしょ。ごめんなさい。

>メロディーの組み合わせの限界説をよく聞きます。 よく聞きますか?そんなことは、自分の才能の無さを棚に上げて、大した努力もせずに、作曲家を気取っている、作曲家もどき連中や、その信奉者たちが言いそうですね。自分の能力の限界を、メロディーの組み合わせの限界にすり替えているだけです。 そのはしりがシェーンベルクであり、過去の偉大な先輩作曲家たちに適わないことを悟るや否や、12音技法という、一見有り難そうだが全く中身の無い理論を立ち上げ、その後の20世紀の大多数の凡庸な作曲家もどき連中はそれに乗っかってしまっただけでしょう。 仮に理論上、組み合わせに限界があったとしても、人類がそれに行き着くことは永遠に無いでしょう。

正直、出尽くした感はやはり否めないと思います。 日本国内のポップス一つとってみても、ここ10年間に発表された楽曲で更に10年後まで残っている楽曲が果たして幾つあるでしょうか。 演奏やアレンジの技術や選択肢は増えたと思いますが、問題の中身の空洞化が進んでいるのを感じます。 どこかで聴いたようなメロディーと使いまわしの歌詞ではやはり感動はないですよね‥。 ここ数年、ヒットチャート上位をアイドルとカバーアルバムが占めている現状はまさにこの問いに対する実質的な答えではないでしょうか? CDが売れない配信中心の音楽市場がミュージシャンの可能性を狭めてしまっていることも大きな要因ではないでしょうか。