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中国の征服王朝についてですが元よりも金の方が中国的な要素が強いと思いませんか

s07********さん

2013/9/801:29:16

中国の征服王朝についてですが元よりも金の方が中国的な要素が強いと思いませんか

元に関しては正式な国名は「大元大蒙古国」で中国の伝統的な漢字一文字での王朝名では無いですし
支配層も漢字、中国語を使うことは無かったです

一方で金は中国歴代王朝と同じ漢字一文字での王朝名で
漢字に良く似た女真文字を使ってましたし
燕京に遷都した後は漢化が進んでしまい
6代皇帝の章宗に至っては漢文化への傾倒が激しかったそうです。

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zev********さん

2013/9/802:32:37

金の中心民族である満州族は、遊牧民ではありません。
農耕もする狩猟民族だったので、その分だけ、漢文化との親和性が高かったのだと思います。

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ste********さん

2013/9/803:48:49

ちなみに金の正式な国号は大金です。
それは置いておいて、元・清は北方異民族の中国統治の長い歴史の集大成ともいえます。
清朝は漢文化の取り込みと、抑圧の絶妙のバランスを保ちある意味芸術的な支配をしたもいえます。
ここに達するまでに北方異民族は数々の失敗を重ねてきたのです。

北魏がこの問題に最初に直面しました。
北魏は北部中国支配の過程で極端な漢化に走り、
鮮卑文化を排除する形で、滅亡しました。
漢化を推進した孝文帝自身がほとんど鮮卑人の血を引いていませんでした。
歴代の皇帝の生母が漢人ばかりでしたので、孝文帝は血筋から見てほとんど漢人でした。
結局、鮮卑は漢化によって、民族伝統の名前を失い、言葉を失い、衣食住の伝統を失いました。

次にキタイ王朝がこの問題に直面しました。
通称遼と呼ばれるこの王朝は、当初は大契丹国が正式な国号で、
大遼の国号を使用していたのは一時的なものでした。
契丹(キタイ)人は二重統治をもって漢文化に飲まれようとすることに対抗しました。
二重統治によって、契丹人は伝統文化を失うことなく漢土を効率よく支配できるはずでした。
しかし、それでも宋からの歳幣により奢侈になり、漢化は免れませんでした。
ラストエンペラーの天祚帝は無能の烙印を押される人ですが、漢文化の愛好家であり、
一流の文化人ではありました。

そして女真人の金になります。
金の支配領域は北魏と同じように華北を占領しました。
北魏・遼と同じように優勢な軍事力により支配したわけですが、
抱えていた問題も前者とほぼ同じでした。
それは人口が圧倒的に少ないということです。
北魏と同じようにもともと住んでいた地域はほとんど空になってしまいました。
その点、遼は燕雲十六州という小規模な領地のみでしたから
根拠地の空洞化という現象は避けられました。
金にとって有利なのは北魏・遼の積み重ねを利用できることでした。
漢化への対抗策として、遼と同じように民族文字の創造を行いました。
契丹文字・女真文字は唐衰退後の中国文明の相対的な低下にともなって、
周辺民族の民族的覚醒が文字文化として現れた現象です。
ほぼ同じ時期に日本では仮名文字が創出されています。
北魏時代の鮮卑人が文字を持たず漢字に依拠したため、
漢化が進行したともいえるため、それの対抗策と民族的自覚のたまものだたのでしょう。
人口の少なかった金は滅亡した遼の契丹人を中国支配に利用できるという
利点もありました。
彼らの遼で培ったノウハウが華北支配と、南宋との関係を円滑にしたはずです。
それでも漢化は避けられなかったのが金の運命でした。
ただ、金朝に関しては元朝時代に編纂された金史が一級資料になるのでしょうが、
さまざまな点で分からないことも多いらしく、研究の待たれる分野だそうです。
モンゴル史家の杉山先生によれば元は遼と金から中国支配のノウハウを手に入れて
大いに活用したため、遼と金の情報を意図的に隠そうとしたのではないかと推測されています。

女真人は金滅亡後、急速に衰退し、せっかく作った女真文字も失い
明時代にはもとの半狩猟生活に逆戻りしていました。
しかし、清朝(これも正式名称はダイチングルン・・・大清国)を打ち立てた
ヌルハチは女真文字とは全く別系統の満州文字を作ります。
女真文字が漢字ベースなのに対し、満州文字はモンゴル文字がベースです。
モンゴル文字は源流をたどればアラム文字であるため、西アジアアルファベットが
元になっていることになります。
実は、この西アジア文明との兼ね合いが元の中国支配とも関係します。
モンゴル帝国は西アジアのイスラーム圏も支配下に置き、彼らの高度な文明と
接触していたため、漢文化のみに接触した鮮卑人や契丹人などとは
ものの見方が違ったはずです。
モンゴル人はイスラーム文明と中国文明を両てんびんにかけ、
客観的に見ることができたことが、それほど漢化しなかった原因とも考えられます。
清朝も漢文化を尊重しつつも、満州語・満州文字を保護し、
モンゴルやチベットなどを間接統治するようにさまざまな文化を相対的に
見ることができたことが、単純に漢化して伝統文化を失わなかったのかもしれません。

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