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三方ケ原の戦いのあった場所を見てきました。武田陣は、戦いに負けた場合、三方ケ原...

pes********さん

2013/11/1918:54:07

三方ケ原の戦いのあった場所を見てきました。武田陣は、戦いに負けた場合、三方ケ原台地から下り坂を敗走し、その先には川(現在の名前で都田川)が行く手を阻む地形でした。 まさに背水の陣です。背水の陣は、味方が絶対に裏切らないと確信がなければとらない陣立てと認識しています。

そこで質問です。
信玄は、味方の裏切りはないと確信していたのでしょうか?
また、戦いに負けない自信があったのでしょうか?

私的には、いくら家康を野戦に誘い出すためとはいえ、危険(遠征軍なので、負けた場合に悲惨)ではないかと思います。

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川崎さん

2013/11/1921:34:13

この頃の武田家は徳川相手に圧倒的有利な状況であり、武将達には武田を裏切る要因がありません。
また、武田に仕えていた三河武士ですが、徳川家康が帰参するように指示を出しており、川中島で活躍した成瀬正一などの三河武士はあらかた帰参しています。

戦う前の事前工作にも抜かりありません。
山県昌景を奥三河から侵入させ、足助城などを落とさせて、三河にいた徳川軍は警戒のために三河から離れられなくさせます。
そのまま足助から長篠に出て、そこから井伊氏の城をいくつか撃破しながら信玄率いる本体と合流させています。

こうして徳川軍を分断させて兵力を削ぎ落とし、文字通り必勝の態勢で望んでいます。
孫子の兵法で言うところの『戦う前に勝つ』を実践しています。

なお、三方ヶ原に私も行きました。
三方ヶ原霊園内の古戦場碑や犀ヶ崖なども見ましたが、三方ヶ原の前に武田が落とした城や、改修した城にも行きました。
また、信玄本陣と伝わる根洗いの松も確認しております。

信玄は三方ヶ原で戦う前に、戦場の北にある二俣城、伊平城、柿本城を落とし杜山城を改修するなどし、後顧の憂いを無くしています。
万が一負けたとしても退路はしっかりと確保しております。現在の国道257号線にあたる祝田の坂を固めてしまえば、徳川軍は坂を下りられません。
また、浜名湖に注ぎ込むあたりの都田川は深いですが、257号線が通るあたりの都田川の水深は深くありません。渡るのは容易です。
さらに、信玄本陣は坂の入り口にあります。敗色が濃厚になれば直ぐに坂を下りられる位置にあたります。

以上のように、信玄は三方ヶ原で戦う前に、事前工作や退路の確保を入念に行っており、万全の態勢で徳川軍を迎え撃っています。

質問した人からのコメント

2013/11/25 20:35:44

ありがとうございました。

ベストアンサー以外の回答

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編集あり2013/11/1920:56:10

通常裏切りと言うのは恩賞目当てか、負けそうな側の自己保身として外部からでは難しい損害を見方に与えそれを持って功績として相手方に帰順するケースがほとんどです。

今回徳川方は攻め込まれているので新たな土地を得る事が出来ず有力武将を引き込むだけの十分な恩賞を与える事は出来ません。


また徳川方と武田方を比較して誰が武田方が負けると予想するでしょうか?

後世の我々だからこそ後に天下を統一して幕府を開く徳川家康として認識出来ますが当時は駆け出しの戦国大名いわば青二才です。

一方の武田信玄は戦国一のビッグネーム、自称毘沙門天の化身と互角に渡り合い、三増峠の戦いでは退却を装いながら北条勢を撃破した無敵の軍団です。

そして兵力は2倍以上・・・


武田方の武将の誰が自分たちが負けると思うのでしょうか?

bir********さん

編集あり2013/11/1919:24:37

徳川家康は、三河の岡崎城を最初、本拠とした。
今川氏の衰退で、徳川は武田とともに今川氏の
領土を取り合い、武田は駿河、徳川は遠江を
奪取した。徳川は本拠を浜名湖より東方の引馬
という古城を改築して浜松城を 建てて、徳川は
本拠として武田と対峙した。すると、
浜名湖の西方から三河の東方に、かけて
武田の支援による一揆が起きて、
三河と遠江の中間地域は武田のナワバリ化
していた。よって、三方が原の戦い当時、
武田は余裕を もって三河や遠江に進撃でき、
徳川は、これに、抗いがたい情勢であった。
家康は、浜名湖の西にある湖内の半島の
宇津山砦に、家来を やって守らせたかったが、
誰も志願しなかったので困ったという。
なぜなら、その辺り は当時、武田の味方の
武者 ら の砦が、群れていて、宇津山砦に、
たてこもるのは徳川の士にとって自殺行為
だったから。高齢の松平清善が、自分は、
後先ながくないので死んでも惜しくないのでと
志願したため家康は、破格の禄を やって
宇津山砦に、こもらせた。
つまり武田信玄の信望は遠江の武者ら が
多く を寝返らせるほどで、これを背景に
武田信玄は、三方が原の合戦には万全の
態勢で、家康を仕留めるべく臨んだといえます。

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